はじめに
−2002年1月のアフリカ−
今日は「グローバル化の中のアフリカ」という大きなテーマで話をするわけだが、アフリカと一言でいっても非常に多くの国がある。国連加盟国だけでも53カ国あり、それぞれの地域で全く異なった歴史や文化が存在している地理的にも多様な世界である。
昨年のテロ事件以降、アフリカのニュースはあまり伝わってこなくなったが、アフリカで事件がなくなったわけではない。現在も多くの問題が継続中である。その象徴といえるのが戦闘、あるいは戦闘終了後も停戦が十分に守られていない地域が世界で一番多いのがアフリカであるということだ。
特に多いのが中部アフリカで、私が初めてアフリカに行った30年前とだいぶん変わってしまっている。例えば現在のコンゴ民主共和国(かつてのザイール)では1997年に政権が交替しているが、日本ではほとんど報道されていない。その時期に非戦闘員も含めて約250 万もの人が亡くなっている。これだけ戦闘地域が拡大していることは前代未聞の事態といえる。
グローバル化とは何か
さて今回のテーマとなる「グローバル化」という言葉だが、日本で一般に使われている意味とアフリカの、特に歴史を研究されている方々とでは言葉に食い違いがあるようだ。日本で「グローバル化」を「世界化」とも訳されているかも知れないが、一般には1980年代以降の情報技術の発展に伴い、金融を中心にした大規模なモノ、人の移動を伴う市場開放を意味しているだろう。
しかし、アフリカでは1980年代以降に始まったものではなく、ヨーロッパとの出会いにさかのぼった数世紀にわたる長いトレンドで「グローバル化」をみている。つまり、ヨーロッパ中心の世界市場に統合されていく過程を意味している。そのため私は「グローバル化」の定義のズレを感じている。
このグローバル化の中でいろんな問題が起こっているが、その1つに経済の問題があげられる。アフリカ大陸には世界人口の10〜12%がいるが、世界全体から貿易から見るとアフリカが占める割合はせいぜい2 〜3%になってしまう。経済で見ればアフリカは非常に小さな存在になってしまう。恐らく最近の意味でのグローバル化はこのような経済的格差を更に大きくしてしまっているのではないかと私は思っている。
大西洋貿易と植民地支配
18世紀、アフリカ西海岸において大西洋貿易が行なわれた。これについては日本でも数年前に上映された「アミスタッド」という映画やレゲエ・ミュージシャンのボブ・マーリーが歌った「バッファロー・ソルジャー」という曲でご存知かもしれないが、セネガルやガーナ等の西海岸からヨーロッパ人がアフリカの住民をブラジルやキューバやアメリカ等に強制連行していった奴隷貿易を意味する。
?チナの地が国際貿易の中心地であると同時に、世界で支配的な国家として勢力を振るうため、軍事的にも重要な土地にできる国の友好関係をどれだけ有利に築けるかについて考えてほしいと売り込んだのである。結局スエズ運河を守るという目的もあり、イギリスがそれを最も高く買った。それがはっきり出たのが第1次大戦終戦間近の1917年のバルフォア宣言である。そこではパレスチナにユダヤ人の民族郷土が作られることは好ましいことで建国に協力すると唱われていた。
深刻化するパレスチナ問題―西の壁事件
第1次大戦後、1922年にパレスチナはイギリスの委任統治領になった。そしてイギリスの統治の下、ユダヤ人の民族郷土建設を推進するという条件がつけられた。だがパレスチナの人々は自分たちの知らない間に戦勝国であるイギリスの統治下に置かれ、勝手にヨーロッパから移民してきた人がお金で土地を買い取っていくことに不満が出始めていた。その不満が初めて爆発したのが1929年の「西の壁」事件であった。この年は世界恐慌が始まった年であり、この頃からパレスチナに移民するユダヤ人の数が増えていった。それに危機感を持ったパレスチナ人が暴動を起こしたのである。
この「西の壁」というのはエルサレムの旧市街地にあるイスラームの聖地を囲む壁の西側であると同時に、ユダヤ教徒が祈りを捧げる場所でもあった。先述の通りここでは3つの宗教の聖地が共存しているため、もめ事が起こらないように例えば「西の壁」の前にベンチを置かないなどの色々な約束事があった。しかし移民の増加で勢いを増したユダヤ教徒がその約束を破り、そこに先の背景が重なりあい暴動となり、双方合わせて何百人もの死者が出る事件になってしまった。ここからパレスチナにおける暴力的衝突が本格的に始まったといえるのではないだろうか。
そして1933年にドイツでナチスが政権を取ったことで事態は更に激化していった。ご承知の通りナチスは第2次大戦中に多くのユダヤ人(ナチスが言うところのユダヤ人)を虐殺し、戦前にはドイツ、あるいはヨーロッパからユダヤ人を追い出すという民族浄化の政策をとっていた。一方シオニストは「よそ者」として暮らすよりもパレスチナにユダヤ人国家を作ることを目的としていたため、両者の利害はここで一致した。そこでドイツのユダヤ人がパレスチナに移住する手続きを決めたハアヴァラ協定が1933年にシオニストとナチスの間で結ばれたのである。この頃から、ドイツだけではなくヨーロッパ各国でのユダヤ人に対する圧迫が強まり、パレスチナへ流れ込むようになった。その結果1936〜39年にアラブ系のイスラム教徒とキリスト教徒によるパレスチナの大反乱が起こったのである。この反乱はゼネストからゲリラ戦に発展したが、イギリスが武力によってこれを鎮圧し、最終的にはパレスチナ人同志の内ゲバによって自滅してしまった。
国際管理の下でのパレスチナ
その後1939〜45年の第2次世界大戦を経て、国力の弱ったイギリスは解決の糸口さえ見えないパレスチナ問題を国連に委ねた。そして1947年に国連総会決議 181号が採択された。この決議の中身はエルサレムとベスレヘムを国際管理とし、その他の土地をユダヤ国家57%とアラブ国家43%に分割するというものであった。しかしユダヤ国家といっても地元のユダヤ教徒は本当に極わずかで、ほとんどが20世紀になってから入ってきた移民である。当時のユダヤ人の人口は全体の約30%で決議以前の所有地は7%であったにも関わらず、国土の57%をそのユダヤ人に与えるという現在では絶対通り得ない不公平な決議がアメリカとソ連の支持によって出されたのである。
当然地元のパレスチナ人や周辺のアラブ国家はこれに不満を持ち、第1次中東戦争になった。結局この戦争は外交面ではアメリカ、軍事面ではソ連の支援を受けたユダヤ人シオニストたちが勝利した。つまり2つの超大国とその他のヨーロッパ諸国がユダヤ人をここに押しつけるという形で、パレスチナは分割されたのである。
アメリカとパレスチナ
第1次大戦中アメリカは中東に大きな利害関係を持っていなかったため、民族自決の原則からパレスチナにユダヤ人国家を建設することに興味がなかった。しかし1933年にナチスが政権を執って以降、周辺国へ逃げたユダヤ人も多くおり、またアメリカ国内でもシオニズム運動が力を伸ばしていった。だがどこの国も難民には来てほしくはなく、アメリカも様々な理由をつけて入国させないようにしていた。これに対してほとんどのユダヤ系アメリカ人は不況の中で彼らの受入れを求めることができず、徐々にシオニストの主張に寄っていった。そして第2次大戦が始まると、それがユダヤ系アメリカ人の圧倒的な世論になった。
戦争が終わると今度はナチスに強制収容されていたユダヤ人の帰る場所がないという問題が生じてきた。彼らの多くはアメリカに移住ことを希望するが、彼らに来てもらっては困るというのがアメリカの本音であった。そこで多くのユダヤ人を死なせてしまった罪の償いと、彼らをアメリカに来させないために、アメリカ政府はユダヤ人国家の建国を応援するという判断をしたのである。
このような経緯でイスラエルは誕生した訳だが、当初割当てられていた57%の支配地域を第1次中東戦争に勝利することで77%にまで拡大した。その後イスラエルとソ連の関係は悪化し、逆にヨーロッパの支配から脱したかったアラブ諸国がソ連に寄っていった。この結果アラブとイスラエルの対立は米ソの対立と重なっていった。
アメリカにとってイスラエルの重要性が増すのは1967年の6月である。この時にイスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンの間で第3次中東戦争が始まり、イスラエルは奇襲をかけてわずか6日間で圧勝した。これによってイスラエルはパレスチナの 100%を支配下に置いてこの地域における軍事的スーパーパワーを有する国家となり、アメリカはイスラエルを戦略的資産と評価するようになった。現在新聞などで「占領地」と呼ばれているのはこの時に奪った23%の土地であり、特に1977年以後イスラエルは積極的にそこに入植地を建設していった。国際法上、この入植地建設は違法で国連・安全保障理事会も1967年直後から撤退を求めているが、イスラエルは撤退できない既成事実をつくるためにそれらを無視して入植を進めている。また当初は半分だけだったエルサレム全市を占領し、そこを永遠に首都とする宣言をも行った。しかしこれも 181号決議に明らかに違反しており、国際法上「エルサレムの地位は未定」という建て前からそこにはどこの国も大使館を置いていない。
この後も活発化していたパレスチナ人の武装抵抗を粉砕しようとして、1982年にレバノン戦争を起こしている。イスラエルはこの戦争でパレスチナ兵が数千人立て籠もったベイルート市を包囲して、非武装の一般市民が住んでいるにも関わらず、そこへ毎日対人兵器で砲爆撃した。またベイルート占領後はパレスチナの右翼民兵を使って、パレスチナ人を虐殺している。この戦争の立て役者が現在のイスラエル首相、当時のシャロン国防相である。
イスラエルに対するアメリカの対応としてはまず第1に、戦略的資産として評価して以降、アメリカは1国に対する対外援助で、イスラエルに対して最も多くの額の援助を行っていることがあげられる。この援助が少しでも減ればイスラエルの軍事や経済は非常に大きな影響を受けるだろう。第2に国際法違反を繰り返し行うイスラエルが国連で問題になると、アメリカは拒否権を使うということである。国連ではイスラエルの違法性や監視団の派遣等の決議案がこれまで多く出されてきたが、実行性のあるものはアメリカが全て否決させている。だが独自に経済制裁を行うわけでもなく、ただこれまで紛争を引き伸ばしてきた。これがアメリカの政策である。
パレスチナの平和
なぜこのような関係を続けてきたのか。確かに冷戦中には戦略的資産としてイスラエルと特別な同盟関係を維持する必要があった。しかし冷戦終了後はアメリカの国益にとってもこの政策は望ましくなくなっているはずである。それにも関わらずそれが変えられない。それがなぜなのかについては、実はあまり分かっていない。ただこれまでの惰性や、ユダヤ系アメリカ人の経済・政治的影響力という国内政治上の問題、あるいはアメリカも移民国家として同じようなことをやってきた等は理由としてあげられるだろう。しかしいずれにしても誰が見てもおかしいアメリカの中東・パレスチナ政策が変わらない限り、パレスチナに平和は訪れないのではないかと私は思っている。