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歴史部会・学習会報告
2002年6月8日
政治家・森秀次について

北崎 豊二(大阪経済大学教授、大阪の部落史委員会企画委員)

 森秀次は部落出身ではじめて代議士となった人物であり、また融和運動の推進者としても知られている。その識見や業績についてはいくつか先行研究があるが、部分的な間違いや不明な点が多く、もっと研究されてよい対象である。

 森の生い立ちについては、和泉の南王子村の生家、幼少時の教育、細河村の森家の養子にいったいきさつなどほとんどわかっていない。

 1887(明治20)年に大阪府会議員選挙に出て落選はしたが、それを皮切りに政界に入り、1895年に4度目の出馬で豊島郡から当選した。その間、1891年の府会議員選挙に際しては、部落出身であることを理由に森を府会議員に推薦することに反対する有志の者の差別事件(選挙妨害事件)があり、これをきっかけに京都の柳原町の有志らが立ち上がり、部落民の大連合をはかる動きもあった。また府会議員時代には1899年の府会副議長就任にあたっては、それに反対する差別事件がおこっている。

 森の明治20年代の政治活動としては、1887〜89年の民権諸派の反政府統一運動である大同団結運動に参加したのをはじめ、地価修正運動にも力を入れた。地価修正運動では役員として活躍しており、このことからして森の立場は地主制擁護にあったといえよう。一方、政党活動は1889年創立の月曜会に入会し、ついで自由党で活動し、1898年には憲政党大阪支部を組織している。

 1902年の第7回総選挙で森は衆議院議員に立候補するが次点で落選した。ついで1903年の第8回総選挙に立憲政友会の推薦を受けて立候補し、最高点で当選した。以後、1903年の第9回総選挙でも当選したが、1908年の第10回総選挙、1912年の第11回総選挙には落選している。もっとも1911年の補欠選挙には当選し、後の大隈内閣の内務大臣大浦兼武を黒幕とする中央倶楽部に所属した。

 しかし、大隈内閣の下での1915(大正4)年の第12回総選挙に際しては、森自身は出馬するつもりであったが、前記大浦兼武の、大正天皇の御大典の時にあたって「何事も古式を尚ばせ玉ふと承れば、今回は殊に人格の点に重きを置かざるべからず」との意向に従って立候補を断念した。森自身は「皇国護持」「皇恩に報いる」ことを旨とする天皇主義者であったのである。

 森は、1917年の第13回総選挙では憲政会より公認され立候補して当選したが、1920年の小選挙区制にもとづく第14回総選挙では立候補をせず、代議士生活に終止符を打った。

 融和主義者としての森は、1922年の大日本平等会の設立に参画し、さらに翌1923年には愛国同志会を結成し、自ら会長になっている。しかし地方改善にはすこぶる冷淡であったといわれる。

 最後に、今後の課題として、さらに史料の収集につとめて不明な点を解明していくとともに、森の代議士としての活動と融和運動とのかかわりをもっと究めていく必要がある。

(里上 龍平)