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「二字之醜名」に関して、幕末維新期の動乱の中、13代目弾左衛門の身分引き上げから解放令にかけての旧幕府・新政府と弾左衛門の折衝と、美作血税一揆にまつわる民衆の意識から考察するものであった。
国立国会図書館蔵の「旧幕府引継書」の「弾内記身分引上一件」によると、慶応4年(1868)1月13日、老中稲葉美濃守は弾左衛門に対して「出格之訳を以身分平人ニ被仰付」として身分引上げを言い渡した。続いて、弾左衛門の願いに応じて、「譜代家来筋之者六拾五人」の身分引き上げを申し渡した。さらに弾左衛門は、同年1月27日に「銃隊取立」「公職」の提案及び「支配下」の「二字之醜名」除去を願い出た。いずれの場合も「扱筋之儀ハ都而是迄通」とあり、弾左衛門の目的としては、身分引き上げと「二字之醜名」除去であり、役務に関しては従来通りとすることであった。
弾左衛門の画策は、旧幕府には認められたものの、新政府には受け入れられず、明治3年(1870)11月18日、東京府を通じて政府に「醜名」除去等を上申した。最終的には「解放令」によって、「身分職業とも都而同一ニ」となり、組織と権益の担保を願う弾左衛門の目論見は頓挫した。「解放令」を「賤称廃止令」と解釈する説もあるが、弾左衛門の意図から考えても、この表現は適切ではない。
美作血税一揆の要因は、「新平民ガ近時傲慢ノ態度アルヲ見テ之レヲ憎ミ」、「同村ノ儀ハ従前穢多ニテ、御一新後右称号廃止セラレ候以来、自然不遜ニ有之候ヲ、兼テ悪マシク存」とあるように、農民たちは自分たちが「穢多」同様となることに拒否反応を示したことであるであると指摘できる。また、一揆勢の要請に応じた「詫書」には「旧穢多」と記され、呼称の上では「解放令」を受け入れている。
美作血税一揆をめぐる身分呼称を検討すると、「元穢多」が最も広範囲に使用され、元々は「穢多」であったことを容認するニュアンスが見受けられる。一方、公文書には「旧穢多」「新平民」「新民」が使用され、今は「穢多」でないことが強調されているように感じられる。
以上のように、身分と呼称に関しては、それぞれの立場において、その利用する意図にズレがあり、歴史用語として使用する場合、リアルタイムでの状況を再検討し、適切な用語を使用するべきである。
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