調査研究

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2008.07.17
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会 学習会報告
2008年3月1日

民権
-初期議会期の西浜部落の政治動向

八箇亮仁(予備校講師)

 報告者は、『大阪の部落史通信』第41号(2007年12月)に「森清五郎と中江兆民」と題する一文を寄稿しており、本報告では、これをもとに、自由民権運動と西浜部落とのかかわりを再検討した。先行研究には、『大阪「西浜町」における被差別部落の動向と自由民権運動――明治二十年代初期の「東雲新聞」』(部落解放研究所、1971年)など白石正明の諸業績があり、白石は1889年6月に西浜町に「平等会」が結成される頃から森清五郎をふくむ西浜町関係者は板垣派に接近するとしている。だが、事態はそう簡単ではない。

 森清五郎は1878年に数え年で31歳の「髪結職」であったことが確認されている。1882年から西浜の有力者と自由民権運動との接点が確認できるが、1887年以降の本格的な関係構築の背景には大同団結運動の高揚に加え、渡辺村=西浜町の有力者が皮革業者として、松方デフレ下を生き抜き経済成長を遂げていることも見逃せない。そのような中、森清五郎らは中江兆民の趣意書を得ながら1888年には西浜町に「公道会」を設立し、正宣寺で開会式を開いている。森は開会式で祝辞を朗読しており、また後に会員から退会の動きが出ると兆民らが説得に乗りだしたとの報道もある。森は、兆民と密接なかかわりを持つ壮士であった。

 また、森清五郎は大井憲太郎とも関係があった。自由党再興、大同団結の動きのなかで、1889年5月、大井憲太郎を支持する堤仁三郎や小林佐兵衛らが「西浜倶楽部」を結成し、森もこの創立に参加している。小林は有名な侠客で、社会事業にもたずさわった人物であり、司馬遼太郎の小説「俄」に描かれた人物である。

 さて、1889年6月、森清五郎らが発起人となって「平等会」が発足し、会員500名と称された。翌1890年2月に板垣を招いて「大阪有志懇談会」が開かれ、森ら西浜の関係者が参加していることは白石の指摘するとおりであるが、同月開かれた「西浜町懇親会」で町内の一致団結がはかられて中江兆民を議員に推挙することを決定している。7月の選挙で兆民は当選するが、「西浜倶楽部」主宰の懇親会を板垣は急に欠席している。これを兆民の知名度を利用しただけとする白石の評価には無理があり、やはり西浜の資金力による選挙運動は相当重要であり、そこには町内団結にむけての森らの奔走があったと考えるべきだろう。

 1891年2月の兆民の議員辞職後、板垣派の会合の中に森の動向をたどることは困難になる。そして、森が板垣派でなかったであろうことは森秀次差別事件でもうかがえる。同年3月の府会議員選挙で、森秀次にたいする差別宣伝がおこなわれ、森秀次は落選した。この事件にたいして京都では柳原町を中心に、部落大同団結の気運がたかまるが、5月には関係者のあいだで手打ちがおこなわれ、結果として大団結は頓挫する。西浜関係者の対応は分かれ、森清五郎がこの間差別事件の事態収拾に関与した面は否定できない。しかし、そこには板垣派と大井派間の政治党派の対立問題も絡んでいたと考えられる。

 森清五郎はその後も、衛生や道路など地元密着型活動を保持し、人材育成を通じた部落解放をめざしたと思われる。日清戦争後の追悼行事への参加を確認できるのが、最後の史料となる。

(文責:廣岡浄進)