|
|
 |
| <前に戻る |
|
|
| |
| 『大阪の部落史』第七巻(現代編1)、発刊記念の集い、開かれる |
一月二〇日、部落解放センターにて『大阪の部落史』発刊を記念する集いが約九〇名の参加の中、開かれた。
友永健三(部落解放・人権研究所所長)の司会で始まり、参加いただいた大阪府・市、大阪府市長会、部落解放同盟、大阪府同和事業促進協議会、リバティおおさか(大阪人権博物館)の関係者の紹介がなされた。
そして、上田正昭(大阪の部落史委員会委員長、京都大学名誉教授)より発刊の意義として、第一にイデオロギーにとらわれず収集された具体的史料に基づく史実を重視したこと、従って、第二に、従来の部落史と比べて部落の生活実態や文化、意識等に比重を置いたこと、第三に一九五〇年代の市町村合併に伴う部落差別と部落問題の再編や部落と在日韓国・朝鮮人の関係など従来の史料集にないテーマを取り入れたこと、第四に地名・人名の掲載、表記について関係団体とかなり綿密な打合わせをしたこと、そして第五にこの史料集が日本の人権文化の創造の大きな一翼を担っていること、が述べられた。
続いて、里上龍平(大阪の部落史委員会)より『大阪の部落史』第七巻(現代1)の内容の特徴として、地名については基本的に小字レベルまで記載したこと、府県単位の部落史編纂では初めて戦後史をカバーしたこと、生活実態では単に低位性だけでなく部落内の社会構造にもスポットをあてたこと、解放運動も多様な団体による多様な活動が草の根的に存在していたこと、戦前の大阪の同和行政の連続・非連続の両面があったこと、市村町合併に際して独立的存在であった所ほど差別や部落問題の位置の変化が大きかったこと、等々が述べられた。
最後に村越末男(部落解放・人権研究所理事長)より閉会の挨拶がなされ、集いを閉会した。
|
|
|
|
|
戦争と方面委員 ―『復刻・戦時下大阪府方面常務委員会議事速記録』を読んで―?
里上龍平(大阪の部落史委員会事務局)
|
一
本書は、大阪府方面常務委員会の一九四二(昭和一七)・四三・四四・四五年の議事速記録を活字にしたものである。これはちょうど、太平洋戦争の開始から敗戦に至る戦時体制下の時期に当たる。
方面委員制度の組織・活動およびその変遷については後述するとして、方面委員制度は今日の民生委員制度の前身で、方面の数は一九三九年には大阪府内で一五〇あった。各方面には、方面委員が一〇名以上と、方面常務委員一名が置かれた。その他、戦時中には一方面三〇人以内の方面協力委員も置かれた。
方面常務委員は府幹事とともに方面常務委員(聯合)会に組織され、月一〜三回の委員会が開催された。そこでは主として順番に担当方面の「方面取扱事例」(一回に一〜四例)が報告されて、それをめぐっての質疑応答などが行われた(研究)他、大阪府からの指示、調査依頼や諮問、常務委員会としての協議がなされたり、要望や意見具申などが行われた。
方面常務委員会は毎回の委員会毎に速記録をつくり、それを年毎にまとめて方面委員関係の規程、設置区域表、委員名簿、カード戸口・人口表、救護取扱件数、方面事業日誌などとともに『大阪府方面委員事業年報』という印刷物にして、これを公にした。『年報』は発足翌年の一九一九(大正八)年から毎年出されてきたが、公刊されたのは一九四一年までであった。したがって今日まで、一九四二年以降の方面委員および方面常務委員会の動向を知る手がかりがなかったのである。
今回、近畿地域福祉学会大阪方面委員活動史料研究会の手で、戦時下の大阪方面常務委員会議事速記録が印刷されて、私たちが容易にその内容を知りえ、研究に利用できることになったことは、望外のよろこびであるとともに研究会の方々のご労苦を多としたい。
本書は、上下二段組み一〇〇〇頁にもおよぶ大冊で、一九四二年一月から一九四五年一〇月までの月々(開催されなかった月も少しある)の方面常務委員会の速記録、講演会・講習会の記録に加えて、編集に携わった方々の座談会および、「戦時下方面委員活動と政策・実践問題」(永岡正己)、「方面委員制度・組織の変化について」(山本啓太郎)、「救貧制度・実践をめぐって」(石井洗二)、「方面委員による活動内容の分析と評価」(松端克文)の四本の論文が併載されていて、私たちのこの期の方面委員制度とその活動についての理解を、深めてくれるよすがとなっている。ただし、本書は常務委員会の速記録であって、これで方面委員の活動の全貌がわかるわけではない。しかし方面委員活動を反映した記録であることは明白で、史料としての限界はあるものの、その価値は十分あるものと思われる。
二
方面委員制度は、大阪府で米騒動直後の一九一八(大正七)年一〇月に発足した。これより前、この年の五月に大阪府に救済課、七月に大阪市に救済係が設置された。第一次世界大戦中の産業構造の変化やそれに伴う社会変動・社会問題に対応して、大阪府・大阪市は救済事業の整備・強化の必要性を感じていたことが、このような動きとなってあらわれたものと思われる。
方面委員の担当区域は大体小学校区を一方面とし、一方面に方面委員一〇名以上、常務委員一名が知事より委嘱された。そして方面委員は無給の名誉職であった。方面には事務所が設置され有給の書記が置かれた。発足当初の方面は一六、すべて大阪市内であった。方面委員の任務は次の諸項目である。
1. 一般生活状態の調査のため、部内の巡視・家庭訪問を行う
2. 各種公共機関との連絡によって一般生活状態の真相を明らかにする
3. 調査の結果をカード式台帳に記入する
4. 家政・育児その他について、相談に来る者はそれに応じ、それのみでなく進んで相当の指導・助力をはかる
5. 一般住民が諸届を励行するよう常に注意する
6. 妊産婦・嬰児の健康保全に周到な注意を払う
7. 生活困難と認めた者に対しては、先ずその原因を調査してこれを取除く方法を考える
8. 救済の必要を認めたばあいには、敏速にその手続をし、受給されるようになったばあいには、一日も早くその境遇を改善するよう指導する
9. 公私各種の救済機関と親密な連絡を保って、ことに当たって敏活にして機を誤らない措置をとる
10. 市場、購買組合、金融機関等を利用して生活の安定をはかる他、労働者階級の主婦等に対して家政についての知識の普及の途を講ずる
11. 少年少女の職業・労働に格段の注意を払って、少年少女の健康・風紀および経済的能力の保全に努める
12. 済生会発行の施療券の配給、窮民救助、行旅病人の取扱い、感化法の施行関係に関する郡区役所・警察署主管の事項は、追ってその全部または一部が方面委員に委嘱される筈
方面事業は「社会測量」(方面委員制度生みの親・小河滋次郎の言葉)を行って、調査の対象者である貧困者を、第一種(極貧者)、第二種(次貧者)に分類した。「第一期調査要項」によると、「第一種は独身にして自活の途を得ざるもの、独身にあらざるもその扶助者なく自活の途を得ざるもの、および疾病その他の事故により自活困難なる貧困者とす。第二種はおおよそ家賃七円、収入二十五円迄を標準とし、家族の員数、職業の安否、生活の状態等を斟酌し、家計余裕なき者とす」(原典片仮名)となっている。そして調査したこれらの人々の生活状態が台帳カードに記録された。ここから「カード階級」という言葉が使われるようになった。ちなみに、一九一九年末現在で、栄方面の第一種は八二戸(総戸数の二・六%)、第二種は九二二戸(同二九・五%)であった。
方面委員制度は当初は法的な裏付けにとぼしい制度であった。そのためその運営資金は、最初は米騒動の際に行われた米廉売のための資金の余剰をもとにして組織された、財団法人大阪府方面委員後援会の後援によって、のちには有志者の寄付によって、まかなわれたのである。
また、貧困者に勤倹貯蓄をすすめ、同時に低利で資金を融通するために、一九二〇年に大阪庶民信用組合が設立された。
方面委員制度は大阪府を皮切りに、大正から昭和にかけて全国各道府県、六大都市に設立されていった。これはたびたびの恐慌とそれによる失業・貧困の拡大の結果、扶助対象人員が急速に増加したことによるものであった。しかし、これには一八七四(明治七)年制定の「恤救規則」では対応できなかった。そこで、公的扶助の責任の明確化と、その拡大を規定した法律が強くのぞまれた結果、一九二九年に「救護法」が制定され一九三二年から施行された。救護の種類は生活扶助・医療・助産・生業扶助の四種類であった。また、一九三六年には勅令で「方面委員令」が公布され、方面委員制度が法制化されるに至った。
三
一九三七年(昭和一二)に日中戦争がはじまると、戦時体制に即応して国家総動員がはかられた。そのため「戦時厚生事業」が推進される。そこで方面委員制度・活動は二つの課題に直面させられることになる。一つは、一九四〇年に国策の上意下達をはかるために、地方行政の補助機関として組織された部落会・町内会、隣組との、町や村の「世話役」としての活動における競合関係、今一つは、戦力の保持増強のための軍事援護事業、軍需生産増強のための徴用援護事業への関与であった。
前者については、方面委員制度解消論もあったが、一九四〇年十一月の厚生省社会局長・内務省地方局長連名の地方長官宛通牒で、両者の併存・連携の方針が明示された。
後者については、元々方面委員制度は、国家活動との積極的な関連がうすく、個人的であり、かつ社会連帯意識にもとづいた防貧・救貧活動を基調とする性格の強いものであったため、ここにおいて国家的要請にもとづいて「職務範囲の整調」がはかられることになった。これによって方面委員も国策に協力することになる。その結果大阪では、「第一期事業」につづいて「第二期事業」として貧困者救助・軍人遺家族援護等をその任務とした「厚生票」(所得税免税点以下の収入の世帯)、「名誉票」(戦・病死者の遺族、傷痍軍人の家庭等で援護を必要とする世帯)が採用されることになる。ちなみに、戦時下で国民生活の窮迫はますます深刻なものになって、従来の第二種カード世帯とそれに近い世帯との区別がつけにくくなった、との報告が本書でみられる。「準カード階級の増加」といわれたゆえんである。
このような方面委員活動の拡大・変容は、本書でも次の点に反映されている。方面常務委員会で報告された「方面取扱報告」全六六件(一九四四年一〇月まで)によると、軍事援護事業関係五件、徴用援護事業三件となっている。それでも、従来の方面委員の活動領域である母子扶助(一九三八年から「母子保護法」が適用された)、医療保護(一九四一年からは「医療保護法」が適用された)、生活保護、その他の援助・救助事業がいぜんとして多く、しかもその大部分は医療保護を伴っていることが注目される。すなわち、国策に協力しながらも方面委員としての生活困窮者救済という本来の仕事に力を入れており、またそのことの自負を持っていたことが本書からもうかがわれる。
そうはいうものの会議の話題は徴用・軍事援護が大きな部分を占めるようになり、とくに一九四三年に方面委員が応徴士相談員を委嘱されてからは、徴用問題が顕著になる。
さらに戦局が緊迫し空襲の危険が迫ってきた一九四四年後半以降になると、「戦時災害保護法」(一九四二年施行)の適用問題が協議の中心に坐ることになる。
一方、月例の方面常務委員会において個々の事例(個別援助)にもとづく「方面取扱報告」はしだいに後景に退いて、「集団行事」と他府県視察が重視され、その報告が大部分を占めるようになった。「集団行事」の例として、健康相談所の開設、妊産婦の保護・乳幼児の指導保護、転業相談部の活動、要保護少年の重要産業への職業斡旋、結核予防のための保健指導員の委嘱など(「方面事業処理報告」)が報告されている。そして一九四五年になると委員会もあまり開かれなくなり、実質的な議論も影をひそめることになる。
本書を通読してみて、軍事優先の国家総動員体制下で、方面委員は国策協力の第一線に立たされ、本来の仕事としていた、広い意味での生活困窮者救済の問題がしだいに軽視されていきながらも、それでもなお、慈恵的な色あいを持っていたとはいえ、初心を完全に失ってしまうようなことがなかった、といえよう。それは本書での方面常務委員会での方面常務委員の報告・発言の多くが、いたずらに精神主義に陥らず、地域に根ざした具体的なものであったことによってもうかがわれるのである。
(近畿地域福祉学会大阪方面委員会活動史料研究会『復刻・戦時下大阪府方面常務委員会議事速記録』一九九九年八月十五日発行)
|
|
|
|
|
大阪における貧困対策事業と部落ー就学奨励事業を通じてー 伊藤悦子(京都教育大学)
|
はじめに
『大阪の部落史』の史料集(近代編)の編纂に参加し、水平社創立以降の教育史について検討しているなかで研究課題として浮かび上がってきたことは、被差別部落の貧困と子どもの教育実態、それに対する行政施策の内実ということであった。先行研究である『京都の部落史』などでは、著名な崇仁小学校関係史料をもとに大正期から昭和前期における部落の子どもたちの実態や教育実践が叙述されているし、また筆者が関わった『近江八幡の部落史』や『野洲の部落史』(近日刊行予定)では、一般対策としてなされた貧困児童に対する就学奨励の受給状況などが明らかにされているが、大阪における先行研究ではそうした叙述はほとんど見られない。もっとも大阪市の貧困児童に対する教育施設であった徳風、有隣、豊崎の勤労学校については史料が残されていることもあって研究が進んでいるが、逆にいえば、大阪市のなかの一地区の状況のみが明らかになったにすぎない状況である。こうした研究状況について、布引敏雄「大阪の融和運動・融和事業」(『新修大阪の部落史』下巻一九九六年四月)が、地方改善事業と一般対策である社会事業との関連を明らかにする必要を問題提起しているが、史料に即した検討が行われてはいない。
そこで、本小論では編纂過程で明らかになった史料を踏まえて、教育に関する一般対策としてあった「児童就学奨励規程」の実施状況をみるなかで部落の子どもたちの状況を検討してみたい。
大阪府の児童就学奨励政策
貧困児童の就学対策として大阪府は一九二四年(大正一三)十二月「大阪府児童就学奨励規程」を公布している。これは同年の皇太子(昭和天皇)成婚を祝して出された内帑金百万円のうち、大阪府に三万九九一三円が配布されたことから、この金額に三十万円を大阪府が上乗せして大阪府児童就学奨励資金とし、その利子、府支出、寄付金等を合計して各市町村に交付することになったのである。規程はその内容を決定したもので「第二条 市町村は前条の交付金、市町村の支出金及び寄附金等を以て貧困児童の就学を奨励するため、教科書、学用品、被服、食料、生活費の一部若は全部を給与又は支弁すべし」とし、市町村長はこの事業を実施するための規定を定めて知事の認可を受けることが明記された。
その後、一九二九年(昭和四)一月には規程が改正され、国庫交付金が繰り入れられるとともに盲・聾児童へも対象が拡大し、一九三一年(昭和六)年五月には「大阪府学齢児童就学奨励規程」に改正されている。一九三一年の規程は、就学奨励の対象者を四種類に細分化し、貧困の度合いに応じて就学補助の内容に差を付けるようになった。
市町村における実施状況
こうした一般対策による就学奨励の内実が市町村文書によって伺われる。たとえば、北河内郡水本村村会議案には「大正十五年中毎月一回宛就学奨励規程に依り貧困児童に対し教科書練習帳綴方帳硯筆墨クレヨン鉛筆ゴム画用紙及び半紙等を補給す、其人員七十名にして金額百三円八十五銭七厘なり」と記載されており、一人当たりにすると一円四八銭ほどになり、この金額は「毎月」ではなく一年間の予算であったと思われる。この当時、水本村は就学率は「一○○パーセント」であったが、児童の平均出席率は八七・二四パーセントで欠席児童の問題があった。こうした欠席児童あるいは就学奨励の対象者のなかに部落の子どもがどの程度含まれていたかは、水本村の場合は明らかにならない。
ただ水本村の場合、大阪府児童就学奨励規程の公布以前、水本村戸主会(燈油)が大正二年から基金を設置し、不就学児童の保護や通俗教育の奨励を行っていたことから、水本村の就学奨励対象者の多くが部落の子どもであったことが想像される。
また、時代は下がってしまうが一九四○年(昭和一五)の堺市学事要覧によると、市内十三の小学校における就学奨励費支給の状況がわかり、そこから部落を含む学校と他の学校との差異が明らかになってくる。「就学奨励費支給児童調査表」によると、最も貧困で「教科書、学用品、被服、弁当料」を支給された児童は堺市全体で三四三名(堺市全体の尋常科児童二一九九七名<ただし、児童数が明らかでないので在籍児童父兄職業調の数値を利用>に占める比率一・六パーセント)、「教科書、学用品、被服」支給者二○二名(同○・九パーセント)、「教科書、学用品」支給者五五名(同○・三パーセント)であった。
これに対して舳松尋常小学校の場合、全児童数八八九名のうち「教科書、学用品、被服、弁当料」支給者三一名、「教科書、学用品、被服」支給者二四名、「教科書、学用品」支給者七名で合計六二名、全児童数の七パーセントであった。就学奨励支給者の全児童に占める比率を計算すると、湊小学校が四・一パーセント、南旅籠小学校が三・二パーセントと高いものの、他の小学校は一パーセント台がほとんどで、舳松小学校に他の小学校に比べて突出して高い比率を占めていた。舳松小学校は校区に部落を含む学校で、こうした一般対策による就学奨励であっても、対象者に占める部落の子どもたちの比率が高いことがわかる。このことから、子どもたちの生活と教育の関連が垣間見えてくるのであり、一応なりとも就学するようになった昭和期の部落の子どもたちにとっても、貧困による「修学」の問題があった。ただ、この就学奨励事業によって子どもたちの長欠問題や「修学」が解決したわけではないことは、他の地方の部落史で明らかになっているが、大阪の部落史においても一般対策や融和教育に関する行政施策がどのような内実を持ったものであったかは押さえられるべきであろう。融和教育に関する行政施策の場合、尋常小学校を卒業し上級学校に進学した者を対象にした「育英奨励」はいわば部落のエリートに限られており、ほとんどの子どもたちは一般対策の就学奨励を受給するにとどまっていたのである。そういう意味でも一般対策でなされた貧困対策や社会事業が部落の改善にどれほど寄与したか、しなかったかを明らかにしておく必要があり、教育の領域で限定するならば、給食や託児事業、市民館における社会教育的活動も今後検討される必要がある。
ちなみに、この統計の少し前の時期、一九二九年(昭和四)の堺市会で舳松地域の子どもの多くが少林寺小学校に越境していることについて、泉野利喜蔵が市側を問いただしている。市側は適切に処理していると答弁したものの事態は改善せず、昭和六年の市会においても再度泉野が質問していた。越境問題にはさまざまな要因が関係していたが、その一つの要因として貧困の問題があったことが推測できる。
なお、これらの史料は編纂過程で新たに見つかった史料でなく、既に『大阪同和教育史料集』で収集されていたものがほとんどであった。大阪における融和教育、融和事業の検討においては、一般対策をどこまで視野に入れて考えるか、貧困問題と部落問題の違いをどうとらえるか、大阪市内と郡部の違いをどのように見るかなどを検討すべきである。そうしたいわば研究の枠組みづくりが、今後の史料集編纂や本文叙述の課題であろう。
|
|
|
|
|
古江村片岡の歴史 中尾健次(大阪教育大学)
|
はじめに
中世の古江村は、細川荘に属している。細川荘は、古江以下六つの集落から成り立っていた。
一般に中世の惣村は、一四世紀の南北朝前後に成立し、宮座や氏子の制度、入会権・水利権などの権益を確立していった。しかし、一四世紀以降にも惣村への流入はあり、新しい集落が生まれている。古い集落は、従来の権益を守るため、新しい集落をさまざま営みから排除しようとする。ここで古い集落と新しい集落との間に、差別・被差別の関係が生まれてくる。細川荘を構成する集落も、お互いが差別・被差別の関係にあったと推定される。
また、細川荘の集落は、おおきな、あるいは農業を主たる生業とする集落が六つあったということで、他に集落がなかったということではない。これら以外の小さな集落、あるいは農業生産からはみ出した集落は、近世においては近くの″主たる集落″に付属させられる場合が多い。これが「本郷」と「枝郷」の関係となる。近世に「古江村片岡」として登場する地域も、そうした″傍系的な集落″の一つであったと考えられる。
ところで「片岡村」の史料的初見は、万治三年(一六六〇)の「畑地譲渡証文」二点である。この史料から、「片岡村」が少なくとも万治三年には、集落として成立していたこと、ただし独立村でなく「枝郷」であったこと、しかも、この段階である程度の経済力を備えていたことなどがわかる。その経済力が、どのような生産活動によってもたらされたのかが興味深い。
1、片岡村の農業
近世の片岡村は、「片岡皮多」「古江村皮多」などと記される。「皮多」の語は、当然皮革産業とのかかわりを想像させるが、近世の片岡村には、皮革業にかかわっていた形跡がない。ではどのような産業が、片岡村を支えたのだろうか。
ある地域の経済活動を判断する時、人口の変化を目安にすることがある。人口の増加している地域は、経済活動がおおむね活発で、停滞もしくは減少している地域は、経済活動も停滞、または衰退している。
古江村の場合、人口の変化がわからない。そこで、戸数の変化で村勢を類推してみると、古江村本郷が、近世中期から幕末にかけて戸数を減らしているのに対し、片岡の場合は、九十年ほどで倍に増えている。
一般に近世中期以降、農業を主たる生業とする村の人口・戸数は、停滞もしくは減少する。一方、手工業生産などに従事している村では、人口・戸数は増加傾向を示す。古江村本郷は前者、片岡は後者の特徴を示している。つまり、両村落における戸数変化のちがいは、両村落の経済構造のちがいに起因すると考えられるのである。
まず、農業生産の側面から考えてみよう。古江村本村の場合、圧倒的に上田が多く、中田・下田がそれに次ぐ。ところが、片岡については全く状況が異なる。まず上畑がなく、中畑→下畑→下々畑の順に比率が高くなっている。片岡村は、古江村のなかでも特に地味の悪い土地を占めていた。こうしたことから、近世前期の片岡村の農業生産は、かなり劣悪であったことがわかる。
ところが幕末の片岡村は、村内の耕地を倍以上に増やしている。これはなんらかの資金源があって初めて可能になるわけで、それがなになのか、新たな疑問が生まれてくる。
2、片岡村の酒樽運送
弘化二年(一八四五)から三年にかけ、片岡村の一五人の村民が、上止々呂美村から依頼された樽丸五一三丸を、伊丹天王町の樽屋五軒へ移送している史料がある。
「樽丸」とは酒樽の半製品のことで、伊丹の酒造業者が伊丹の樽屋に注文し、さらに伊丹の樽屋から上止々呂美村へ酒樽の調達が依頼されたものだろう。そして、その酒の運送を片岡の住民が担っているのである。
上止々呂美村から片岡まで、さらに伊丹天王町までの距離を考えても、実際の運送が足かけ二年という長期に及び、酒樽の数も何百丸に達していることを考えても、臨時の仕事ではなかろう。おそらく酒樽運送を含む運送業が、片岡村の日常的な生業であったように思われる。
酒樽の運送に従事している片岡の住民は、一五人である。片岡には天保一三年(一八四二)段階で二八軒、嘉永二年(一八四九)段階で三三軒の家があった。一五人の四分の一強が戸主で、当時片岡村の惣代をつとめていた者もいる。こうした点からも酒樽運送は、臨時の副業ではなかったことがわかる。
ところで、こうした運送業は、どのていどの利益になったのだろうか。史料によれば、酒樽二五四丸について一〇両の雑費がかかるという。大部分が運送の経費であろう。五一三丸ならば倍の二〇両となる。これを酒樽運送にともなう片岡村の収益とすれば、かなりの収入源といえる。
おそらく、こうした運送業は、片岡の生活を支えたばかりか、一部の住民にとっては、周辺地域に土地を確保するための資金源にもなったと考えられる。また、片岡村が、こうした流通部門においてではあれ、池田・伊丹の酒造業にかかわっていたことは注目されてよかろう。
(詳しくは『新修池田市史』第2巻収録の「古江村・片岡の歴史」をご参照下さい。)
※ここで表記した「樽」は、原本では旧字体で表記されていました。
|
|
|
|
|
宮田登氏の死を悼む 乾 武俊(部落解放・人権研究所伝承文化部会長)
|
二月十日、宮田登さんが急逝された。もはや、どのような問いを投げかけても、彼は答えない。答えは遺された著書の中にしかない。
彼の主著書は『ミロク信仰の研究』(未来社、一九七〇年)である。「歴史とは問題解決過程であり解決された部面と解決されずに今日まで累積してしまったような部面とがある。解決されずに累積してしまったような生活現象が伝承で、この面を考究するのが民俗学だ」と彼の師和歌森太郎は言った。それを引用し、彼は民俗語彙として「ミロク」を仮名書きし、全国各地に展開する「ミロク伝承」を精密に追っていく。ここ何年かの、彼の著作にのみなじんでいる者には、予想もされぬ具体的な作業である。
一九九五年、私たちが『被差別部落の民俗伝承・大阪』を出版した時、その記念シンポジウムに、彼は駆けつけ参加してくれた。その時私の心に灼きついたことがある。会が始まる前、控室で彼はできあがった本を手にして、ホウソウ送りの口絵写真(上巻)の前で立ちどまった。「ああ、こんな習俗があるのですね」と初めて見る面もちでそれに見入った。その顔が忘れられぬ。彼ほどの民俗学者になれば、ホウソウ送りの事例など数多く見ているにちがいない。しかし南方のおばあさんが作ってくれたこの事例の前で、彼は立ちどまる。私たち人間解放の文化研究をいう者が、まだかならずしもこうした事例の意味に気づかないことが多いだけに、いま彼のような稀少な民俗学者の死は惜しまれてならない。
死の二ヶ月前、私たちは沖浦和光と彼の対談『ケガレ・差別思想の深層』を手にしている。この中で、彼は「ハレとケガレがセットとして一体化した文化体系を想定して、それがアニミズムに沿ったものの発展形態ではないか」という重要な問題提起をしている。にもかかわらず、ふたたび〈ハレ・ケ・ケガレ〉という三極循環論にもどってしまう。「解決されずに累積してしまったのが伝承で、これを考究するのが民俗学」なら、部落差別こそまさに「伝承」の問題である。
もっと被差別部落へ足を運んでほしかった。そしてそのフィールドワークの成果を、『ミロク信仰の研究』のような本格的な仕事として定着してもらいたかった。
人の死のあとには、いつも悔いが残るが、残された私たちは痛切にそのことを思う。
|
|
|
|
|
寄贈図書資料一覧
|
『復刻・戦時下大阪府方面常務委員会議事速記録』(近畿地域福祉学会大阪方面活動史料研究会)
* 『四日市の部落史』第二巻史料編近現代(四日市市史編さん室)
* 『京都部落史研究所報』第一〇号(京都部落史研究所)
* 『京都部落史研究所報』第一一号(京都部落史研究所)
* 『京都部落史研究所報』第一二号(京都部落史研究所)
* 『大阪人権博物館紀要』第三号(大阪人権博物館)
* 『研究紀要解放研究とっとり』第二号(鳥取県部落解放研究所)
|
|