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2002年の日韓共催のサッカー・ワールドカップに先立つこと約400年前に、日朝共催の大規模な事業が存在した。1607年より1811年の約200年間に12回にわたり実施された″朝鮮通信使″である。
本書はこの朝鮮通信使をさまざまな角度から復元させたものであるが、「6章大阪と朝鮮通信使」と「5章朝鮮通信使と肉食文化」の本文の概要を中心に見てみたい。
「高麗舟のよらで過ぎゆく霞かな」
六章での、与謝蕪村の1773年の作である。朝鮮通信使は釜山より新造の外洋船6隻で対馬の後、諸大名が用意した約1000隻の船に護衛されて瀬戸内から大阪へ向かう。淀川河口で大阪城下に入る河口が浅いので幕府や大名が用意した出迎えの日本船に乗りかえるが、その数は150隻にものぼり音楽演奏入りの水上パレードで、両岸の観衆は歓呼の声をあげて見物した。
大阪府富田林市の美具久留御魂神社には、そうした朝鮮通信使を描いた船絵馬を1695年に11名の農民が奉納している。
大阪の宿、西本願寺津村別院は、一般の学者、医者、画員、芸能人で構成された通信使に、求書、求画の文人・町人たちで門前市をなす混雑ぶりで、筆談や詩文の唱酬に熱が入ったとしている。
江戸までの道中の重要な地点、大阪での通信使の影響は大なるものがあったことがよくわかる。
また、1607年の初めての通信使には、約1割、40数人の元日本人がいたという。
5章では、大阪の津村別院の厨房を描いた『朝鮮来朝物館』の中の肉料理の絵図に説明を加え、山羊の丸焼きをはじめ、日本人との共同作業を通じて食肉文化の交流を促したのではないだろうか、としている。
通信使の構成メンバーに「白丁」が加わっており、総勢約500人の日本での半年を越す生活には、本国の熟達した肉料理人を必要としたし、牛肉が朝鮮人の好物であるので食肉用の牛を特別に飼育していたことが広島藩の記録にある、という。
他章でも、3回目までは朝鮮側の「回答兼刷還使」という位置づけ通り、秀吉の朝鮮侵略に動員された多数の日本の民衆のかわりに、労働力として強制連行された多数の朝鮮人を帰国させることがその主目的であったこと、約100万両をかけての江戸までの道中では「唐人踊り」「唐子踊り」などの踊りが現在も祭礼等の中で息づいていること、初めて日朝会話集を出した対馬の外交責任者で儒学者の雨森芳洲による朝鮮語教育の実施、しかし、これらの通信使の足跡が近代日本社会の中でかき消されてきたこと、等々、興味深い豊かな、そして今の私達がもっと究明していくべき課題があふれている。