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1982年から1996年にかけて、筆者が時々に論文として書き、講演で話をされた多岐にわたる内容が15本、大きく4つのテーマで纏められている。テーマ「(1).宗教と差別」のほか、「(2).「穢れ」」「(3).差別戒名」「(4).被差別民と民俗」に分類され、例えば宗教史、文化人類学、部落史、民俗学など、さまざまな知識・見識を駆使して、差別と穢れに関わる宗教の諸側面を分析しておられる。
多岐にわたる筆者の関心の一つが「穢れ」の解明にあることは、疑いない。(2)の第1章「聖俗論と「穢れ」・共同体・カリスマ」では、穢れを「非日常的で異常なもののうち、邪悪なもの、病的なものや不完全なもの、不運、・・・不浄性をおびることがら」(127頁)とし、関係概念であることを強調する。そして(2)の第3章「差別イデオロギーとしての「穢れ」」(初出は『部落解放研究』90号)で従来の通説、[1]「穢れ」を「ケ(=日常)が枯れる」とする通説でいいのか、[2]「ケ・ハレ・ケガレ」の循環論は有効か、を批判的に検討しようとしていることがわかる。
さらに(2)の第2章「「穢れ」と部落差別」(初出は『新版 宗教と部落差別』)で、被差別部落民は穢れているのではなく、「<穢れ>とされた」人びとであることを強調し、研究の課題として《権力》および《権力の在りかた》と「穢れ」および「差別」の関係の解明を指摘する(159頁)。その際、筆者は周到にも、「《権力》は、通常思われているように、それが「国家」にのみ存しているというわけではない。「文化(文明)」にも、「社会」にも、「村落共同体」にも、「宗教」にも、誤解を恐れずにいうなら、「男と女」の間にも、《権力》が存在に介在していよう」(同上)と指摘することを忘れていない。