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学級崩壊や「17歳問題」で、学校や教育の危機とその克服の課題が大きくクローズアップされている。同和教育の場合も、人権教育や総合学習との関係性、学力保障の方向性をめぐってさまざまな議論と実践が進められている。
これらに対する、これからの基本方向を指し示したものが、本書だと思う。私個人が強く印象に残った点のみ、以下、記したい。
第1に、「学校や教育の危機」、「子どもの変化」の背景で、従来と大きく違う点として、「地域教育の地盤沈下」を指摘していることである。子どもは子どもなりに周囲の知識、情報を取捨選択し「心」を形作っていっているが、その前提となる「おとなと子どもの関係」があまりにも希薄化・貧困化してきたために、結果として、おとなのもつ「社会規範」「日常感覚」を子どもが欠如してしまっている、という捉え方である。「心は『文化』の中にある」という指摘が象徴的である。
第2に、その克服の方向として、学校(保育所)、家庭、地域が役割分担を行い、結果としてバラバラに取組みを進めていくのではなく、「一体となった取組み」をどう進めていけるのか、という指摘である。今、ちょうど、運動会たけなわの時期であるが、こうした学校行事のあり方一つにしても本当に再検討されるべきだと感じるが、現実はどうだろうか。
第3に、2002年度より実施される総合学習もこうした文脈の中でこそ、より豊かな、確かなものになっていくことが強調されていると思う。J.レイヴ=E.ウィンガー『状況に埋め込まれた学習』(産業図書)の中で展開されている「正統的周辺参加」論が紹介されている。少し長くなるが引用しておきたい。
「正統的周辺参加の特徴をこれまで述べてきたことと関連させてもう一度整理すると次のようになろう。
おとなと子どもが共通の課題や目的をもった仕事あるいは活動にともに取り組む。
子どもにも年齢に応じた一定の 役割が割り当てられる。
子どもはおとなたちが仕事をしたり活動したりする場に参加し、その様子を観察する。
言語的・非言語的働きかけを通じて、おとなが大事だと思っていること、望ましいと思っていること、美しいと思っていることなど、いわゆる日常感覚が子どもに伝わっていく。」(P.24)
第4に、こうした取組みを通して学校や教育の再生を進めていくだけでなく、「地域コミュニティ」の再生も図られていくべきことを指摘している。このことは親自身もさまざまな意味で豊かになっていく可能性が大きくなることだと思う。
校区レベルでの部落外の親と部落の親との「出会い」と「協働」は、双方に意味あるものになっていく可能性があるからである。部落の子どもの学力保障にしても、「家庭でのしつけや子育てを抜きにして学力の問題は論じられない」(P.84)のだが、「説教」ではなく、こうした体験を通じてこそ、子育てへの関心や意欲を多くの親がもてるのではないかと思う。
この他にも、多くのことが示唆されている。是非とも一読をおすすめする。