Home書評 > 本文
書 評
 
評者I.T
研究所通信251号掲載
脇田学/長尾彰夫編著

カリキュラム改革としての総合学習3
「人権分化を拓く―学校は<個性>が響き合うワンダーランド―」

(アドバンテージ、1999年、B4判143頁)

-----------------------------------------------------------------------------

 「人権総合学習」に視点をあててのシリーズの3冊めは、「楽しくなければ総合学習じゃない」という本シリーズ全巻をとおして貫かれたテーマをそのまま物語るかのように、楽しいユニットの展開例が目を引く。読んでいるだけでも楽しいのだから、実際にやってみれば更に楽しいであろう。しかし、「楽しいだけ」でも総合学習ではない。その点については本書の第1章の部分に「人権総合学習」に視点をあてての全体のねらいとして語られているところである。

 「人権総合学習」は、総合学習を展開するとき、欠かすことのできない視点であるにもかかわらず、あまりそれについて言及したようなものにはお目にかからない。「教科を超えた現実的で有用な学びが今こそ求められているということである。『差別』『環境』『ジェンダー』『平和』『国際化』『福祉』『情報』『在日外国人』『労働』『暴力』『生と死』『家族』などにかかわるテーマは、大人/子どもを問わず私たちが日常的に直面している具体的現実である。

 こうした現実にどう向き合っていくのか、この問題に学校がカリキュラムとして応えられていない」といったように一章でも問題を指摘している。ところが、実際に地域と結んで目の前の子どもの姿を軸として実践を展開している、或いはしようとしている教育現場の実践を見れば、人権教育につながるものであることは多い。

 このような現状にあって、「人権総合学習」という視点で一定の整理をし、ユニットの提示をしている本書の意義は大きい。更に本書は、大阪における同和教育の実践を踏まえたものとなっている。ユニット自体も同和教育推進校等で実際に取り組まれている実践を下敷きとしており、同和教育を「人権総合学習」として発展させていくとはどういうことであるのかについての一例を具体的に示すものともなっているのである。

 鷲田清一氏(大阪大学・哲学)のコラムは、紙数としては少ないが魅力的な内容であった。「自分というもの」というタイトルであるが、その末尾の文章を引用する。「自分というもののかけがえのなさは、自分のなかをのぞき込んでもなかなか見えてこない。それよりもむしろ、自分がいまここにいるということが、誰にとって、どういう点で意味のあることなのかを考えることのほうが大切だ。私のかけがえのなさは、私ではない他の人たちとのかかわりのなかから生まれるのだと思う。」第1章で多くの部分を裂いて述べられている「エンパワメント」の視点とつなげて読めば自ずと「人権総合学習」の方向性が見えてくるように思う。

 ひとりひとりの個性が輝く、そして、一人ひとりの生きる力や行動力を育てる様な「人権総合学習」が、本書を一助をしつつも本書を超える楽しさで現実に展開されることを期待したい。