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同和教育に携わった経験のある者の一人として、ある種、共感を持って読ませていただいた。 「自分の生き方とつなげて参加していくということが、既に同和教育の実践の歴史の中に存在し続けた」と筆者が述べているが、それは事実である。部落内へのフィールドワーク。部落の人、自分たちの祖母、祖父、そして親からの聞き取り。その様な実践はこれまでの同和教育の実践の中に数多く存在している。また、それを聞きっぱなしで終わるのではなく、必ず、思いを共有する活動や、感じたことを表現する活動も大切にしてきた。
また、荒れてしまっている子に対して、何故荒れざるを得ないのか、一人一人に視点を当てて、荒れざるを得ないその子の思いに迫り、とことん関わる中で「荒れ」を克服しようと取り組んだ実践の中身は、筆者が述べるように「同和教育だけがずっと培ってきた」ものであろうし、現在の状況の中では、そんな同和教育の経験を活かし、広げることの重要性もいうまでもないであろう。
ただ1点、「部落の子を、クラスの真ん中にすえる」ということを述べる中で筆者が、「その子がどんな思いで生きてきたか、どんな差別を受けてきたか、その中での苦しみや悲しみをまず、その子自身が自覚し受け止める、そして、まわりの子もともにその思いを共有し、共感する事を通して、その子を支える。」と述べているところには、少し違和感を覚えた。
同和教育が大切にしてきたのは、1つは、その様なことも含めて正に「その子」自身の良さ、逞しさ、人間らしさ、すばらしさを明らかにすることであった。差別を受けた苦しみと悲しみを最も大切にしたのではない。周りの子は、「その子」を支えたのではなく、実は支えられたのである。
周りの子は多くのことを学んだのである。そして、大切にしてきた2つめは、周りの子がその様に、共感し、学ぶ為には、お互いの違いを認めあうと共に、他方で「分かり合える」部分を重ねる行為を大切にしたつながりの土壌をいかに豊かにしていくかである。その様な中でこそ周りの子は、人間のすばらしさを学び、豊かな人権感覚を自らのものとしていったのである。
他方、今、課題となっているのは、この周りの子が学んだ中身を部落の子も別の意味でいかに学んでいくのかということではないだろうか。そして部落の子が社会に出て行くようになって、部落差別に遭遇したときに、確信を持ってそれに立ち向かう行動をとれる力をつけていかねばならない。以上のようなことを普遍的な表現として「人権教育」と呼んでいるのではないか。筆者のいう、「差別を受けている子が現に存在し続ける差別の現実に負けない力を引き出していく」ということであろう。
その様な課題の実現に結びつけて、形だけを追う安易な参加型の導入ではなく、それぞれの地域での子どもの実態と実践を踏まえて、新しい手法をも必要に応じて活用していくことが必要なのではないか。
この論文は、子どもの現実を中心にしたところで、もう一度同和教育を見つめ直していこうという問題提起である。それと同時に、筆者も述べている同和教育の実践の意義を総括する必要性を改めて強く感じた次第である。