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本論文では「同和教育関係者のあいだでは、『人権教育栄えて同和教育滅ぶ』という危惧の声も聞かれる。」ということを前提に、解放教育の側からの「人権教育の原則」の提案を試みている。
筆者は「同和教育・解放教育か、人権教育か」と言う議論について、70年代の原点論対一環論の論争との類似性に触れながらも、状況の違いを踏まえなければならないとしている。そして、解放教育の側から考えた人権教育の原則を積極的に提案することで、活発な論議のための「たたき台」を提供したいというのが、本論文の意図のようである。
しかし、読み手からすれば、筆者の意図が若干誤解して受け止められるのではないかという感は否めない。例えば「差別の現実から深く学ぶ」という原則については、「厳しさ、不安定さ」を強いられた「部落の生活実態とそこから生まれる困難や生活苦を差別の結果ととらえる必要がある。」とし、「差別の現実を出発点にあらゆる教育内容と方法を創造するのである。」としているが、解放教育の実践で最も大切にしてきたのは、その現実の中で生き抜く人間のすばらしさではなかったか。また「重ねる」というスタイルについては、筆者の言うように「非抑圧者としての共通感情」に訴えるだけではなく、「生き方」を重ねる中で、部落外の人々にも広がりを持ってきた部分はなかっただろうか。
その様な解放教育の実践から生み出された受け継ぐべき原則については、少し不十分な記述と言わざるを得ない。筆者は、過去の解放教育を否定している訳ではなくむしろその逆であるが、うかうかと読んでいると、筆者の言う「融和的な意味での人権教育」に流されていく危険性も孕んでいる。
今、大切なことは、筆者の言うように解放教育の継承すべき原則を整理することであろう。そのことを踏まえて、未来を展望する人権教育が論議されなければならない。