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《第2回》
今日の部落問題の最大の課題である「低学力」「就業達成の弱さ」や、部落の人びとの「優しさ」「しぶとさ」が、生活の中のどのようなメカニズムから生み出されているのかを「生活史調査」により解明を試みたのが本書の特徴である。
ここでは、掲載された右記7本の論文の「要約」の紹介をする。今回はその第2回。
●自分のムラに対して違和感を表現するとき
〈要約〉
現在、さまざまな意味で部落は転換期にきているとよくいわれる。かつての、著しく貧困であった時代を通り過ぎ、部落とそこに住む人々は、現在に至るまでの運動の成果や、時代の流れのなかで、そこの生活の大きな変容を経験してきた。貧困を知らない若い世代と、差別の厳しかった時代に生きた高齢者が抱える問題とは自ずと違う。被差別体験も、年代によってはかなりの差があり、若い人々が経験するものと年輩の人々が経験したものとは大きな差がある。
すなわち、現在の部落問題は一元的ではなく、私たちは新たな問題にどう対応するのかが迫られている。そういった転換期の状況下で、聞き取り対象者のなかには、自分たちに今何ができるかを改めて考え、従来の発想にとらわれず新しい尺度でものをとらえようと、もがいている人たちがいる。
ある人の語りには、勉強できなかったことをはじめ何もかもが差別のせいにしてしまうだけでいいのだろうかと、自問自答する姿が見え「まず努力せんと」と自分をいさめる人もいる。「より以上にちゃんとして自分を律しなあかんのに」、そうしない人がいるといって怒っている人もいる。
このように、語りのなかで、自分のムラの人々に対しての違和感や批判が表現されることが、しばしばある。これらは部落に対する思いいれや解放運動に対しての期待が強くあるからこそである。
しかし、今まで、こういった内側からの批判は文字化されることがなかった。批判は多くの場合、差別的な言動であると考えられていたため、異議を唱える対象としてしか存在しなかった。
多くの語りのなかからは、「差別される」「差別する」という二項対立的な図式のなかで、加害者の責任を追及することに慣れてしまった「自分」に気づき、その内面を見つめ直そうとしている姿勢が伝わってくる。
そこには差別はそれをする側の問題だという考え方から一歩踏み込み、差別される可能性のある人々が、差別する可能性のある人々と、新しい視点で、主体的にどう関わっていくのかについて、模索している姿が見える。
本稿では、人々が語るさまざまな批判の内容を4つに分類し、その語りを抜き出してみた。その背後には人々の「自立」への模索が、ぼんやりとではあるが、ある方向性を持って見えてくる。
以下、本文の見出しを抜き書きする。
・地域の閉鎖性に対して
「独特なぬくさとよそもん扱い」「井の中の蛙で終わらんと」「世間を知らん」「ここにいるだけがムラのためじゃない」
・世間の常識との差に対して
「社会出たら通用しぃひん」「けしからん」「それって普通おかしい」「違いが気になる」「自分を律しなあかんのに」
・自らの努力の欠如に対して
「苦しいからできひんかったじゃない」「安易な〈何とかなるわな〉」「だれかがしてくれる」「自分らで切り開いていかんと」
・同和対策事業に過度に依存していることに対して
「だめになるんやろか」「家賃が安すぎる」「他地区の人に対しても」
壁は差別する人々によって作られたものであるが、部落の人々が差別からお互いを守ろうとする過程で強化され、その内部では閉鎖性が少なからず再生産されてきた。壁の内側では、外から加えられる差別の重みに対して、部落に生活するすべての人々を守ろうとし、部落外の人々を警戒し、時には排他的になることもあった。
そのような状況下で、閉じられた社会であるムラ独自の常識が生まれ、その結果、壁の内側で普通であることが、時として外側にいる人々には非常識と映り、よくない印象を与えてきた可能性は捨てきれない。
そして、内にいるとその状況に気づかないときがある。壁は差別という外からの行為によって作られた。しかし、知らず知らずのうちに自らが保持してきたという一面もある。それに気づき、変化を捉え直し、今の自分の位置を確かめようとする人々の気持ちが、多くの語りから伝わってくる。