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長く大手の出版社で雑誌の編集に携わり、また差別表現の問題に関わってきた著者が、マスメディア関係者の差別表現に対する認識を検証している。「差別語」あるいは「差別表現」のいちいちに対して、「これは差別」「これは差別ではない」とコメントしている本ではない。
第1部ではマスメディアの現状として、「言いかえ集」やコミックの「描きかえ」の現状に触れて、マスメディアの過剰なまでの「自主規制」を問題としている。マスメディアの特に雑誌やコミックを含む編集の担当者やその長は、差別に関わる恐れのある表現(文章やマンガ)に遭遇すると、自分で考えたり調べたりすることを放棄してしまっているようだ。
全体の文脈や歴史的な限界性などを勘案して、本当に必要な表現なのか、あるいは不必要で「書き換え」がふさわしいのかを考えようとはしない。
例えば、4本指の表現を部落解放同盟の幹部に恐る恐るお伺いを立てて、「問題ないよ」といわれてもそれでも書き換えて余計にヒンシュクをかったなどというのは、有名なエピソードである。
第2部は差別表現か否かを検証するというコーナーである。「出版・人権差別問題懇談会」に加盟する出版社の担当者から集めたアンケート結果を元に、現場の人たちは様々な文章表現に対してどのような態度を取っているかを検証し、著者がそれぞれに考え方をのべている。あくまでも、それぞれの担当者が考え、時には関係者と話し合い、自らの判断を持つことが大切だとしている。
ここで登場する文章表現に対する著者のスタンスについては、読者の1人としては「違うな」と感じることがあった。しかし、そういう感覚や異なる意見が出てくること自体は、排除されるべきではない。
本書を素材に、さまざまな表現媒体に関係する人たちが議論を深めることは有意義だと考える。当然、表現する側にもいろんな意見があっていいし、受け取る側もその作品を吟味し、判断すればよい。その作品を文化として後世に伝えたいかどうかを決めるのはわれわれ読者である。
しかし、マスメディアの側が「差別表現」に過敏になりすぎたのは「抗議」「糾弾」のためなのだろうか。また、その結果生じたといわれる過剰な「自主規制」の問題に一石を投じたのは、筒井康隆の「断筆宣言」事件だけだったのだろうか。筒井の「宣言」まで、マスメディアの関係者は人権問題に関して惰眠を貪っていたのであろうか。「もっと自信を持って」と言いたい。
日本の戦後民主主義の中で獲得された「表現の自由」は、知る自由と伝える自由を国家権力から解放した。伝える手段としてのメディアは急成長し、まさにマスメディアとなったが、その中身がどうであったのかが問われ続けている。
民主主義の中で、戦前は抑圧・差別されてきたマイノリティは徐々に自分たちの社会的位置の低位性を自覚しだした。並行して視聴者・読者でもある市民意識も高まりを見せ、それをさらに促す作品も数多く発表された。素晴らしい文化作品が生まれ、報道が世界を結びつけた。20世紀にマスメディアの果たした役割は大きい。
本書にも引用された、手塚治作品によって自由や平和、民主主義の素晴らしさを知った子どもたちが、長じて「批判・抗議」する市民へと成長したとは考えられないか。これは至極当然のことであり、手塚の描いた未来像の一断面でもあったろう。この歴史的な側面こそ、次いで検証していただきたい。
しかし一方で、その媒体であるメディアは、多様な価値観を持つ民主主義や市民社会に対応できていないのではないか。ここでは「もっとがんばって」と言いたい。人権団体による抗議行動以上に、草の根としての視聴者・読者の市民感覚は成長しているかもしれない。
最近のマスメディアによる報道のあり方に対する市民の反感や反発はその現れであろう。市民自身による情報発信も盛んだ。このまま市民の人権感覚から遊離していては、「表現の自由」を守る木鐸も付け替えざるを得なくなるのではないか。