Home書評 > 本文
書 評
 
評者Ju
研究所通信239号掲載
奥平康弘・鈴木みどり・浜田純一・平川宗信 座談会

犯罪報道とプライバシー・名誉・その他の人格的利益をめぐって

『ジュリスト1998年6月15日号特集 犯罪報道のあり方と報道の自由』

-----------------------------------------------------------------------------

 ここでは第一線のメディア問題研究者が異なったアプローチから最近の報道機関の犯罪報道による人権侵害の構造と被害者の救済の仕組について、メディア側だけではなく市民を視野に入れた上でどう展望するのか、について論じている。

 90年代に生じた「松本サリン事件」「神戸事件」「東京電力女性社員殺害事件」などの事件を切り口に、報道機関による犯罪報道が生み出す人権侵害がなぜ改善されようとしないのかということについて、「メディア間の『商品』としての競争の激化、伝統的なモラル、価値観、秩序の全般的な問いなおし」(浜田)、「この間のメディア状況の変化のなかで情報を持つものと持たざるものの格差が明白になっているにもかかわらず、メディアと人権を語る際にその視点が抜け落ちていること」(鈴木)という問題提起がされている。

 犯罪報道に関わっては写真掲載、実名報道、神戸事件の調書の掲載など特に雑誌の問題が指摘されているが、これについては「犯罪の被害者についての救済が手薄であるという人びとの不満にのっかる形で報道がされている」(平川)ことについて、「犯人探し、容疑者報道などの犯罪報道は不要」(奥平)という発言も出ているが、それに対して「犯罪報道のあり方を変えるという議論となくすという議論は別」「ある事件が起きたときに人びとが情報を十分に知り参加することは刑事司法機関への監視の前提」(浜田)。

  また、別の角度から「メディアは人の生命であれ、プライバシーであれ、何でも売れるように料理して売ってしまうことができる。このコマーシャライゼーション(商品化)にメディアがどう歯止めをかけるのか」(鈴木)という指摘がなされている。また、インターネット時代には誰もが匿名で送りてになることができるが、「マスコミだけではなく情報の質や水準に対する個々人の意識がいっそう問われる」(浜田)、この文脈で市民がメディアが偏在する時代にそれを読み解き活用する力(メディア・リテラシー)をつけることは市民の基本的人権であり、民主主義の強化にとっても重要(鈴木)と、メディアだけではなく市民の側にも課題を投げかけている。

 また、報道被害の救済制度については、メディアのあり方だけを論ずるのではなく差別意識を再生産する社会のなかで「自分たちがなにを社会の理想的な水準として守っていくのか本格的な議論が必要」そして、「そういう水準をつくっていくときに人びとが幅広く議論できる場をつくることが必要」(浜田)との指摘は興味深い。

 犯罪報道を切り口にしながら法的枠組みにとどまらず、メディアあるいは市民の課題を明かにし、そのことを通じて社会的公正をどう実現していくのかという議論が本格的になされようとしていることに注目したい。