-----------------------------------------------------------------------------
1980年代には、「国際人権法を使った国内裁判が行われ、国際人権訴訟の可能性が認知される」ようになり、90年代には、「加害者を裁き、真相の究明をし、そして被害者に賠償する、という新しい流れが出てきている。」
こうした背景には、アムネスティ・インターナショナルのような国際人権NGOの不断なる努力があった。本書は、「活動家」と「研究者」の視点をもった取り組みを推進してきた著者ならではの興味深い提起が多々なされている。
「制度そのものができることは歓迎すべきことのように見えるけれども、しかしそれは常に限界を抱えているし、その制度が人権侵害の被害者を抑圧する形になりかねない」として、人権法の発展を「政府の視点から」ではなく、「人権侵害の被害者の視点から」見ていくことの大切さを強調している。
過去50年間に及ぶ国際人権法の発展やその背景を丁寧にひもときながら、同時に、既存の人権の国際保障メカニズムが現在の人権侵害に対応するには限界を持ち合わせていることも鋭く指摘している。
例えば、女性たちの声により、社会・家庭など私的領域における「女性に対する暴力」という人権侵害が国際人権法の対象に取り入れられていくことになった、という指摘もおもしろい。女性の声が人権概念そのものを変えてきたといっても過言ではないだろう。
「人権規範、人権制度の発展のみに目をやるのでは見えてこない人権状況の悪化が世界のいたるところで起きている」ことを踏まえながら、これまで「国際人権法が人権侵害の主体として想定しているのは国家だけ」であったことの限界を強く指摘している。
そして誰によって、どういう形で、具体的に人権侵害が引き起こされているのか?国家なのか?多国籍企業なのか?国際金融機関なのか?個人なのか?をはっきりさせることが必要だと著者は言う。
特に国際通貨基金・世界銀行・世界貿易機構といった国際機構から生まれ出るルールと違い、現在の国際人権保障体制や国際人権法は守らなくても別に何の制裁措置もない。著者が言っていることは、日本政府による一連の国際人権諸条約に対する対応を見ても明らかだ。
「条約機関がいかに活性化しても、人権基準がいかに深化しても、それが各国の政策決定過程に影響を与えないのであれば、どれほどの意味があろう。国際人権基準の深化は、ただ現実とのギャップを押し広げるだけになっている」。
日本で活動をしている国際人権NGOがもはや一方的に学習したり、告発したり、要求したり、という時代ではなく、具体的な政策提言を行いながら、いかにオルタナティブの提示を今後できるか、「政策決定過程の中にいかに効果的に入り込んでいくことができるか」、が問われている。
同時に、著者が指摘するように、「人権NGOと環境NGO、経済問題に関わるためのNGOが同じ流れの行動を起こす方向性」を日本のNGOも見いだし、日本社会ならびに国際社会の中での「人権」の位置を高め、広義な意味での「人権」活動を発展させていくことが求められているのではないだろうか。