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評者本田哲郎 カトリック司祭
研究所通信232号掲載

神の杖

(46判、472頁、3800円+税)

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「神の杖」〜韓国文化に受肉した福音書

 「あなたの言うとおりだった。真の解放は、差別や矛盾から逃げたり回避したりすることではなく、正面から向きあって、その真ん中を堂々と歩いて通りぬけることだと言った、あなたのことばは正しかったのよ」。

 白丁(ペクチョン)の出であることをひたかくしにかくして、功なり名をとげた主人公の女性、朴異珠(パクイジュ)は、さいごにこうつぶやいた。自分とは正反対の生き方をえらび、身分差別を温存させる社会の因習や制度にあくまでも抵抗し、若くして権力に暗殺された妹、明珠(ミョンジュ)にむけてのひとりごとであった。

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 国立大学の教授となり、ベストセラーの著者として脚光を浴びはじめた、まさにそのときに、せっかく築き上げた小さな城が崩れ出す。物語は、かくしおおせたと信じた自身の村の名と親類すじが白日のもとにさらされる不安と懊悩の朴異珠のあがきを枠組みに、白丁として負わされる差別とかぎりない苦しみに、さまざまに対応する親子四代にわたる生活史をつづる形で展開される。

 恋愛、親子のきずな、白丁としての職業、村社会の因習、本貫(ポングワン=本籍地)のしがらみ、両班(リャンバン=名士の家系)と白丁の関係など、韓国文化の光と陰を織り込みながら、日本による朝鮮半島侵略から米軍統治の政治的背景にもするどく触れている。

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 「わたしは妹のように堂々と生きられなかった。…わたしはいつも殻にかくれてばかりいて、逃げることを選んだの。かくれるためには隠れ家や防空壕が必要だったし、逃げるためには、便利な制度やあらゆるものを所有することが必要だった」と、むすめに言う。そして、「穀物が芽を出すためには、種そのものがくさっていなければならないって言ったの」と、死んだ妹のことばを自分のむすめ敬西(キョンソ)に明かす。

 『ひとつぶの麦は、地におちて死ななければ、ひとつぶのままである。しかし、死ねば多くの実をむすぶ。自分自身に執着する者は、自分をほろぼし、この世にからめとられた自分自身を憎む者は、永遠の命にむけて自分を守りとおすのだ』(ヨハネ12:25)というイエスのことばがこだまする。

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 「神の杖」(シンペンイ)は、白丁の人たちが動物の肉を切り分ける包丁のことである。白丁の存在は、この「神の杖」のように、人々の中にかくれた思いを切り分けて断絶と差別をえぐりだして白日のもとにさらす鋭い刃物であると同時に、人々がそれと正面から向きあって立ち上がるときに、神の恵みをわきださせる神の杖となるという。

 聖書はイエス自身が「包丁」(ギリシア語で machaira 長めのナイフ)であったという。イエスは家畜小屋で生まれ、賤業と見なされていた「石切り」(大工ではなかった)を生業とし、「食い意地のはった酒飲み」「罪びとの仲間」とさげすまれ、「悪霊につかれた男」ときめつけられて社会的抹殺をはかられた人であるが、そのイエスがこう言う。

 『わたしが来たのは、この地上に平和を投げ与えるためだと思うな。平和を投げ与えるためではなく、包丁を入れるために来たのだ。わたしが来たのは、人をその父親から、むすめをその母親から、嫁をそのしゅうとめから切り分けるためであり、こうして、自分の家族のものさえも敵対するようになる』(マタイ10:34〜36)。すなわち、仲間の痛みを共有する立場に徹底して立つときに、場合によっては肉親とも対立することになるが、そのような態度決定ぬきに、真の平和、人権の解放は実現しない、ということである。

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 本書は、ひごろ韓国の文化や人々との交流をおろそかにしてきたわたしのような者にとって、なじみの少ないたくさんの人名、地名が登場するので、とりつきにくいかもしれない。しかし、読みすすむうちに中身の重さと深さに引き込まれる。