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近年の歴史学研究において「衛生」をめぐる研究は急速に進んできている。「衛生」の歴史的考察は、ここ10年のあいだにもっとも活況を呈した領域のひとつといいうるが、これは「衛生」が近代社会を形成するにあたっての重要な拠点のひとつであり、「衛生」をめぐる出来事に近代社会の論点が集約されているという認識に基づいている。
歴史学の講座のなかに「衛生」にかかわる論文が寄せられ(たとえば、歴史学研究会編『講座 世界歴史』第4巻)、歴史学研究の学会の大会でも「衛生」が論議されるようになっている(たとえば、1997年度の歴史学研究会大会の近代史部会では、「近代社会システムとしての公衆衛生」がテーマとなった)。小林の研究は、こうしたなかで形作られこうした動向を確実なものとする研究となっている。
本書の冒頭に、1879年夏のコレラの流行にともなって京都で「クワーランタイン」(検疫)が実施され、患者を「隔離」し、交通を「遮断」し、「遍く消毒」し、「矮陋不潔なる家屋は断然破壊し焚焼さしてしまつた」出来事が紹介される。ここに、コレラ対策としての「隔離」「遮断」「消毒」と、場合によっては「矮陋不潔なる家屋」を「焚焼」してしまったことがうかがわれる。近代社会に転換していく時期の「検疫」=衛生政策の状況がはっきりと書きとめられている。
小林は、本書を通じてこの出来事に示されるような衛生政策の歴史的検討をおこなっていくのであるが、この「クワーランタイン」が「京都の近代化政策の推進役」であった槙村正直の側近で「開明派」官僚として知られた明石博高の伝記に記述されているところに、小林は注目している。「開明派」による近代の都市政策として衛生政策は実施されていくことになるのである。
小林はこの過程を、「近代的防疫行政の形成」(第1章)、「防疫の組織化」(第2章)と描く。コレラという急性伝染病は、従来の医療や救済の仕組みに変更を迫り「近代的」な対応策がおこなわれていくが、これは「施療」の基礎となる近世的な町組織が、衛生行政を担う近代的町組織へ転換することでもあった。
これは、別の論理をたどれば、「隔離」=「印づけ」から地域の担い手による「防疫の社会化」の過程である。この過程を通じて、コレラの発生が多発する「危険視された地域」としての「貧民窟」が浮上する。
地域社会のなかの「社会的差別」を小林は指摘し、衛生政策を通じての差別の究明を課題としていく。また、コレラが流行するたびに被差別部落の衛生状態が取りざたされることにも小林は着目し、「都市貧民」と被差別部落がどのように関連させられていったかについての考察もおこなう。
「伝染病と地域社会をめぐる諸問題」(第4章)、「近代部落問題の成立・序説」(第6章)で扱われるのは、「都市貧民」が可視化され、視覚化され、その彼らが移動する(させられる)ことによる農村部・都市部における認識のズレ。そしてそれにともなう被差別部落の概念の形成である。
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先に述べたように、「衛生」と近代社会をめぐってのこうした論点は、これまで大筋は明らかにされてきた。神戸の事例をあげつつ安保則夫(『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム』学芸出版社、1989年)らが跡付けていった論理が、あらためて京都の事例として語られる。これまでの研究水準を本書は、しっかりと踏まえ描き出したといいうる。
こうしたなか、興味深いのは「コレラ騒動の歴史的意義」(第3章)である。1882年に京都で起こったコレラ騒動は、医師(および巡査、戸長代理、衛生委員)が家族の反対を押し切って患者に投薬したところ患者が死亡してしまったことに端を発している。村民400人が患者宅に集まり、医師たちに抗議し、竹槍をもって警察署分署へ押しかけようとし村民が逮捕された。
小林が紹介するこの事例の舞台となったのは被差別部落であり、当時の新聞報道では「この村独特の風習とされている葬送の光景」がいわれ、小林も、巡査や医師などの外部のものが共同体内部にもち込もうとする「新しい行政手法や価値観との摩擦も大きかったといえるであろう」と述べている。
「衛生と言う〈文明開化〉の政策的強制が旧来からの生活共同体に基づく〈民衆の生活世界〉と鋭い緊張関係を生み、その緊張関係がときに思いがけぬ〈噂〉の原因となったり、熱狂や暴力へと結びつくこともあった」と、小林は説明するのである。しかも、この集落や患者の遺族には「騒動」の記録も記憶も残されていないという。
「文明開化」という「近代」の論理が、いかに深い傷痕を与えてしまっているかということであろう。「近代」の論理(ここでは「衛生」という技法であるが)に抗っていくということは非文明=野蛮、そして固陋頑迷の烙印を押され、近代社会から排除され、落伍していくことを感受せねばならないのである。このことが、コレラ防疫――コレラ騒動をめぐって、描き出されている。
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もっとも、こうした「文明開化」と「民衆の生活世界」との対抗として「衛生」を描くならば、「紀念祭・博覧会と『公衆衛生キャンペーン』」(第5章)で扱われた「公衆衛生キャンペーン」=医師たちが京都府知事らに出した「市医意見書」(1896年)の冒頭に「空気」という項が設けられていることの意味合いが問われるであろう。
すなわち、小林はこの意味を「日常的な『市民の健康の保護』に大きな関心が寄せられるようになった」と解釈している。しかし「空気」は従来の身体の規律・作法であった養生論のなかでもっとも重視されていた項目であり、こうした「民衆の生活世界」のなかで「市医意見書」の「空気」も解釈されるべきではなかろうか。
「衛生」における権力が、本書において小林によって跡付けられていった。ここでの権力とは、人間と人間、人間と共同体といった〈関係〉のなかに生じてくるミクロの権力である。この権力は従来の公共性を再編し、あらたな公共性を打ち立てる。
衛生が、「公衆衛生」として立ちあらわれてくるのはその理由によっているが、その論理とそこに生ずる「摩擦」(矛盾)を1880年代から1900年ごろまでの京都をとりあげ、歴史的具体的に論じていったのが本書の立場と論理である。ミクロの権力はこうしてあらたな公共性=都市政策を形成するが、その担い手を創出しつつ、公共性に包摂する部分と排除する部分を線引きしていく。
線引きの根拠は、「衛生」の実践であり、清潔をモットーとする生活態度が実行でき、「衛生的」身体の規範を遵守できるかによっている。この観点から見るとき、「衛生」のプロジェクトはこの19世紀末の時点では完結しない。
「衛生」の権力は、同時にベクトルを内にむけ、個人の身体の自律化=個人が自己の責任で衛生を実践することを強制もする。本書で扱われたコレラという急性伝染病の終焉したあとに流行する、結核・トラホーム・性病などの慢性伝染病がこうしたベクトル=衛生の内面化を強制するのであるが、この過程は、今後の課題として残されているということであろう。