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書 評
 
評者田中和男
部落解放研究132号掲載

一番ヶ瀬康子編 安岡憲彦著

シリーズ福祉に生きる2 草間八十雄

(大空社、1998年12月、46判、180頁、2,000円+税)

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 福祉の世界では、戦後改革以来の枠組みからの離脱が求められ、基礎構造改革の必要性が語られている。これまでの福祉行政を支えてきた厚生省の官僚やそれに近い学者までが、従来の措置制度の制約を批判し、契約制度によって選択の自由を実現するという介護保険の立ち上げを推進した。自分たちが措置制度を支えてきたことは忘れてしまったかのようだ。

 歴史の忘却は、戦争責任についてだけ拡がっているのではない。これが現実だから、福祉の分野で、行政的対応がほとんどなされていなかった時代に、貧困や障害・差別を軽減しようとした先駆者の努力を書き止めて置くことは意味のあることであり、福祉の現場を生きる福祉従業者のなかにも、福祉の歴史を知りたいという声もあるだろう。

 福祉の専門家を養成しようとする大学のカリキュラムのなかで、歴史の授業はますます軽視されているから、記憶を保つ必要は切実であろう。このようなニード(需要)に応えるために発行された「シリーズ福祉に生きる」の1冊が『草間八十雄(やそお)』である。

 著者・安岡憲彦さん(以下敬称略)は30年前、草間が家族と別れドヤ街で不幸な死を遂げたとの記述に関心をもって以来、草間が書き残した著書の復刻や論文の編纂などを手がけ、多くの書物にまとめている。その解説文が、コンパクトな本書の基礎にもなっている。

 草間にとっては、この人以外にはいないという著者によって、初めての生涯の全体を見渡せる伝記を得たといえよう。著者の先駆的な業績に敬意の念を表しつつ、本書によって草間の生涯を紹介し、その後で、評者の疑問点を記していくことにする。


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 草間八十雄は1875年、長野県(当時筑摩県)の松本に素封家に子として生まれた。幕末に名主を勤め、維新後に開智学校新築に尽力した父も、明治10年代の松方デフレの影響で「家勢の異変」を蒙り、上京を余儀なくされた。しばらく仕送りを受けていた草間兄弟も、父を追って上京し、和仏法律学校(後の法政大学)に学ぶ。

 一時、警視庁勤務の後1903年、中央新聞に入社したのを手始めに、東京日日、日本新聞、東京夕刊などの新聞記者、大正通信記者として、「貧民生活の実状」の記事を書きはじめることになった。大正通信の経営者であった村居鉄次郎を通して、大江卓の融和団体帝国公道会の部落改善事業に関与し、米騒動の後には、被差別部落との関係を究明する視察に参加した。しかし、公道会が方針を変化させると、草間も部落改善事業から離れ貧困問題一般に関心を移した。

 これ以降、彼は内務省嘱託として、東京・大阪などの細民調査への参加(1921年)、東京市の嘱託や正規の主事として、水上生活者、浅草公園の野宿者、「乞食」「不良児」の実態調査に従事し、報告書を発表した。

 戦争が激しくなると、調査からも離れ、「国策にそう言動」は避けていたが、社会事業への関心を持続した。1946年1月に、罹災者収容のバラックで独り死んだ。71歳であった。


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 草間の社会事業への関心は、ソーシャルワーカーとして具体的な貧困者や弱者のニードに応えるというよりも、貧困の解決の前提とした調査を行い、著述を刊行することであった。安岡の意図も、草間の生涯と調査・著作活動を、内務省・東京市社会局が展開する社会事業と関連づけ、草間の「社会的弱者への目を通して、当時の社会事業の在り方を捉え直」すことであった(162頁)。

 本書においても、調査のいくつかの目次や内容が紹介されている。草間の調査がそうであったように、安岡の著作も、豊富な資料とそれに基づく考察が多くを占めている。ただ、事実の提示の慎重さと比べて、事実と事実を結ぶ考察・推量の根拠不明瞭さがいくぶん気になるところである。幼少期の草間の、松方デフレでの経験を述べる箇所を取り上げてみよう。

 父の名が公職に載せられていない事実、草間が家督相続をしたという事実から、1885年前後の経済状況と結び付けて、松方デフレによって、草間家の「家業が倒産し、身代限り等の結果と推測」している(16〜17頁)。当時の松本地方の「大不景気倒産相継ぐ」様子も書かれているが、決定的な草間の困窮ぶりは描かれない。

 この「幼少年期の郷土体験」は草間が貧困問題の追及に入り込む一つの契機と著者は考えているから、内実いかんの実証は重要である。しかし、この辺りがはっきり分からないので、この記述に続く、同時期を生きた日本民俗学の大成者・柳田国男との類比はいかにもとってつけたように感じてしまう。安岡は、草間の郷土体験と柳田の飢饉体験がそれぞれの学問・研究を動機づけたという点で共通性を有しているという。

 柳田の農政学への研究の発端が、「何故に農民は貧困であるか」を明治10年代の「飢饉」体験で発見したことにあるのが事実であるにしても、これを一般に広げて、「社会の矛盾や、相剋を肌で知って、その個別体験を普遍化しつつ思想と生涯を形成」した「知識人の一類型」(46頁)とまでいうには、同時期を生きた他の一群の人びとを比較する必要があろう。
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 さらにいえば、草間の思想自体がどのようなものなのか。松方デフレ期の個人的体験がどのように草間の生涯に決定的な影響を与えたのかも、文章を読んでいくかぎりでは納得させられない。もちろん、草間が貧困者の諸相を具体的に報告し、その実状に通じてきたことは、草間の経歴とあげられている著書・論文からも明らかであろう。

 和仏法律学校で草間が聴講したかもしれない社会政策学者・高野岩三郎や、ジャーナリスト松原岩五郎、横山源之助からの影響も示唆されている。しかし、1909年に草間が記者として貧民問題に意を注ぎだしたのは、いかにも偶然で、郷土体験に無関係なものとしか思えない。

 貧困の問題から、大正期には被差別部落に関心をむけた変化も、同僚を通して融和団体の部落改善事業に関与するという叙述では、被差別部落の人びとに対する偏見、差別的待遇をなくすために、国民が被差別民を理解し、「充分融和し、混化してこそ初めて安心がえら」れる(56頁)という融和事業への支持も、草間のどれほどの内的な思想として考えて良いのかは疑問であろう。

 関心を、さらに、被差別部落から貧困一般に移すについても同じことがいえる。著者のいう草間の経験に根ざす貧困へのこだわりはどうなったのか。


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 融和主義が、貧困一般に適応されて、被差別民と「一般社会民」、労働者と資本家、地主と小作人が「融和」と「混化」した「国民」統合への立ち上げを、草間が希求したということであれば、柳田と同様、草間もまたある種のナショナリストであることを、安岡は示唆したいのか。

 確かに草間八十雄の生涯は描かれ、彼の「社会的弱者への目」を感じさせることはあっても、草間自身が自分の生涯を主体的に作っていくというよりは、同僚や関与した団体の変化に媒介されて変わっていく姿が表面に現われている。あるいは、客観的な社会の姿をそのままに映す「社会的弱者への目」を強調しようとする著者の戦略なのか。

 しかし、「社会的弱者への目」が必ずしも、事実をそのまま映すという保障はない。社会的弱者への目をもつことは、社会的弱者の立場に立つことでもない。都市下層社会に身を投じることが「被差別民衆とともに『同じ境遇に立って』生きること」(125頁)と常に同値であるとは限らないのだ。実際、草間の文章を読むと、安岡が描いた草間像の危うさを感じてしまう。

 安岡は、やや言い訳的に、草間の著作に「その時代の社会意識を反映してか、今日的意識からして疑問な記述・言動もあろう」としている(125〜6頁)。「今日的意識からして疑問な記述」という表現ははっきりしないが、「差別的な表現」ということであろう。時代の社会意識を反映した差別的言動の存在という弁明は、草間の活動の主体性を無視している安岡の姿勢を典型的に示している。

 草間の差別的と見える言動も、責任は草間ではなく、当時の社会意識にあるといっているからである。しかし、そうだろうか。草間のやや際物(きわもの)的な「歪められた性欲」や「娼婦」の生態をレポートしたものだけではなく、不良少年の早期発見や不良化防止を目的としたという『不良児』などの著作にしても、調査に基づく事実の提示で終わっているのではない。

 被差別民の危険性、不良少年の恐ろしさもまた提示している。草間の言説が被差別民衆の仮構された恐ろしさを強調することによって、社会意識としての差別(スティグマ)を再生産したことを無視できない。児童虐待を追放する児童救済家の活動が、児童虐待の事実をカムアウトさせ、虐待を潜在化させ複雑化させる場合もありえないことではないのだ。