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書 評
 
評者山下隆章
部落解放研究139号掲載

高橋啓著

近世藩領社会の展開

(渓水社、2000年5月1日、A5判、360頁、8,000円+税)

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1 本書の問題意識と構成

 幕藩体制において「公儀」は無限定的に藩を集権的に包摂したのではなく、諸藩は一定の自律的統治権力を有し、独自の藩領社会を形成していた。本書は国家と地域社会という枠組みのなかで近世社会をとらえかえすことを意図し、徳島藩を考察対象として著述されたものである。

 構成は、次の3部である。

第1部 藩領社会の形成

第2部 藩領社会における領主と農民

第3部 藩領社会の展開

 第1部では、対幕関係、大名支配権の確立と領国統治機構の整備・拡充、農村の基礎構造を通して藩領社会の成立過程の形成を、第2部では、諸役負担体系と村請制システムから領主と農民の相互関係を、第3部では、近世中後期の藩領社会の展開と領主支配を統一的に把握することをめざして著述している。

 また、徳島藩成立期から終末期までの特徴的史実を論題にしているものの、本書を読めば自然と全体像がつかめるという、通史的側面ももち合わせている。今後の近世史研究の視点を明確にし、論述している点で大いに参考となるものであり、とくに徳島藩を研究対象としている研究者には必読の書である。


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2 身分制に関する各論

 身分制に関する論稿は、第1部第2章「身分制支配の展開―阿波における近世賤民制の展開をめぐって―」である。紙数の関係もあるので、この点に限って書評を進めたい。

 まず、「えた」身分の成立について、17世紀中ばの動向に着目している。当時は、軍役による藩財政の窮乏や領国経営の破綻、農村の荒廃化を改善するため、村請制による村落支配の編成と生産基盤の整備や小農経営の維持が重要課題であり、そのために領民の支配体制の確立をめざした、としている。

 その基盤が棟付帳の作成であり、明暦期から延宝期にかけて「かわた」が「えた」へと呼称変化したことを明らかにした。徳島藩では、明暦期には「えた」と「かわた」が併用されていたが、延宝期には「えた」で統一されているのである。

 また、「本百姓但革多」から「穢多百姓」、享保期には「穢多」へ変化している例をあげ、生産者的側面の人別把握から身分的把握に移行した、ととらえている。なお、この時期は、帰農策の一環であり、近世「非人」統制のはじまりとなる「乞食非人」への木札交付も見られ、画期にあたることを付論「徳島藩の非人支配」で補填している。

 また、「かわた」の移住による「部落」形成の事実も、一国一城令による支城の廃棄という支配のありようと深く関わりつつ、藩の進める勧農策に取り込まれていったととらえている。

 さらに、「えた」身分を特徴づけていた斃牛馬処理と皮革生産に加え、新たな掃除役の付加と夫役の免除・行刑の役負担が、ケガレ意識を通しての身分支配を決定づけたとした。これらは、近世身分制研究の上で示唆的な視点であるといえよう。

 次に、阿波には、「掃除」「探禾」などの地域的に限定された賤民諸身分が存在する。これらの身分は、「えた」「非人」身分の把握を支配の機軸にしながらも、中世以来の伝統的な社会的存在形態をふまえて再編したものであるが、このうち、人形廻しを生業とする「掃除」身分が、「掃除役」の役負担付与により「掃除」身分に呼称変化したことにふれ、「えた」身分の成立と連動したものと規定している。

 ここでは付論「徳島藩の非人支配」とあわせて、中世からの「乞食」と村落共同体から脱落した「乞食非人」との支配のありようを対比させて考える上で興味深いものがある。

 この後、「身分的隔離と差別の強化」、「『部落』の生活」と考察を進めているが、ここで着目しなければならないのは、天保期に藩権力の差別規制に対して村役人層が先取りして上申するという、「身分的・社会的な隔離が」「村落内部で『一人歩き』を始めている」事実を明らかにしたことである。

 農民支配の強化が図られるなかで、「賤民に対するむきだしの差別規制が随伴する」背景に、「強烈な『穢』意識や『人外』観念が、日常生活レベルで村落生活に浸透し、定着化していた」ことは見逃せないことであり、藩の支配政策の問題とともに、なぜ近代になっても差別は残り、部落差別という新たな差別が構築されていくのかを考察する上でも重要である。

 付論には「徳島藩の非人支配」、「近世後期阿波における皮革流通」、「『あるき』考」の3論文がある。ここでは、近世「非人」身分の成立と「番非人」制度の確立、皮革流通では、身分を問わず抜牛馬が横行していたこと、「あるき」と呼ばれる村の通信・連絡要員の実態が明らかにされている。

 なかでも、これまでほとんど論じられていない「あるき」の分析は興味を引く。「あるき」は本来百姓に準じたが、代替に「猿牽」「茶筅」が利用されたり、座頭稼ぎから排除されているため、社会的に差別された存在であった。藩は、百姓格に戻し、「あるき」が絶えた村では百姓輪番としたが、藩の意向と村の意識は異なっていたのである。


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3 問題の所在

 本書に対し、次の2点を今後の研究課題として呈したい。

 まず、生産者的側面の人別把握から身分的把握に移行する過渡期において、「えた」身分の末尾記載・別帳「化」はどのような意味をもつかという点である。

 松下帥一は、「本村」の庄屋・村役人は「『えた村』をなかば他村」と認識し、藩は設定した行政村における庄屋の行政範囲を示すために「えた村」を末尾に再編集したとし、記載形式により「封建領主階級の政策的意図により在地の共同体内から分離せしめられたのではない」と分析している(「近世前期徳島藩における被差別部落の存在形態」)。

 つぎに、「えた」の「法外なふるまい」をすべて「『諸人』=百姓・町人との平等を要求」したもの、生活防衛闘争ととらえてよいのかという点である。例に引いている「掃除」身分の虫送り神事での百姓と同盃を求めるという「横領不埒」な行動は納得がいく。

 讃岐高松藩には次のような事例がある。「番えた」がもつべき半棒をもたず、脇差様のものを差しているので、これを禁じた。理由は、「平人」と「差別無之」ためとしているが、この行為を「平人」は、自分たちと同等、もしくはそれ以上と感じたのではないか。「法外なふるまい」ととらえているのは「諸人」である。その行動に対する「えた」身分との意識の差をより明確にするべきではないだろうか。

 本書には、民衆レベルでの意識の問題が随所に著されているだけに、今後この点を是非明らかにしてほしい。


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おわりに

 著者は、評者の修士課程における指導教官である。評者の在学当時も本書の執筆にかかっておられた。公務に追われ、なかなか本書をまとめられないもどかしさをよく語っておられたことが懐かしく思い出される。

 著者は学生に対し、原典にあたる大切さ、全体像をとらえた上で分析することの重要性を常に指導されていた。本書を手にとってみて、そのことを身をもって示されている好著であると確信した。評者の非力さのため、労作に対して著者の意を十分に伝えられていないことをお詫びする。