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書 評
 
評者亀岡哲也
部落解放研究134号掲載

山本尚友著

被差別部落史の研究―移行期を中心にして―

(岩田書店、1999年12月、A5判、543頁+51頁11,800円+税)

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 本書は、京都部落史研究所、ついで世界人権問題研究センターの主任研究員として、部落史研究を精力的にすすめてこられた山本尚友さんの論文集であり、内容としては京都周辺の賎民集団の近代にいたる大きな流れが移行期を中心に描き出される、部落史の研究書として充実したものになっている。

 その構成は以下の通りである。

はじめに

第1章 古代から中世へ

 第1節古代末期における非人身分の生成

 第2節中世における非人の賎民集団への分化

第2章 中世から近世へ

 第1節中近世移行期の賎民集団と権力の動向

 第2節中世末・近世初頭における賎民集落の分布

 第3節中世から近世における部落寺院の成立

 第4節近世身分制と賎民身分

第3章 近世から近代へ

 第1節真宗の信仰と平等の追求

第4章 前近代被差別部落史のスケッチ

 第1節山城井手郷の古代から中世

 第2節散所の生成・解体と声聞師

おわりに

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1

 まず各章節ごとに著者の論点を整理してみたい。

 第1章第1節では、主として罪人をさして用いられた非人の語義を確認したうえで、古代末期から中世初期への社会変動が穢れを管理することへの要求を強める中で罪人と乞食により構成され社会的疎外をうける集団として非人身分が成立するものとされている。

 第2節では諸権門、つまり権力とのかかわりが大きな要因となって形成された中世賎民の諸集団が、社会的には非人身分として一括しうるものの、集団間の混交の可能性については低いものであったとされる。


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 第2章第1節は、これまでの研究では明らかにされていない、「多様な形で中世社会に存在していた中世賎民が、どのような具体的な経緯を辿って近世社会に入っていったか」という問いにこたえんとするものであり、「結局のところ賎民集団が仕えた権門の消長が、近世における集団の位置を決したとみることができる」という結論が導かれている。

 第2節においては、宿・散所・清目の集落が一定の範囲に多数分布する洛南の地を舞台に、各集落のありようが史料的に検証されており、実質的には前節までの主張が裏打ちされていくものとなっている。

 第3節の部落寺院の研究は、西日本の被差別部落のほとんどが浄土真宗を信仰していることについて、その信仰が幕府によって強制されたものとする見方を否定し、真宗の布教側と被差別部落側の双方に受容をひろめる条件があったことを明らかにしたもの。著者の研究の出発点となった論考でもある。

 第4節は近世の穢多非人を中核となしつつも、時代的、地域的に多様な姿を示す前近代の賎民集団に対するとらえ方を、ふたつのコメント的論考をもとに整理されたものである。


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 第3章は1節のみで構成されるが、近世から近代の移行期に、地域における被差別部落と宗教のかかわりの中で、本願寺教団内での平等要求など、新たな動きをみようとするものである。

 第4章は、前近代社会における賎民集団の動向を第1節では井手郷という特定の地域を切り口に、第2節では声聞師という集団を切り口に解明しようとしたもので、全体の補論として読者が前近代部落史の概観をイメージしやすいようにとの著者の意図のもとにおかれている。


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2

 さて、残された紙幅で全面に論評をおこなうことは評者の非力もあって困難であるが、いくつかの指摘をさせていただきたい。

 まず、古代にかかわる部分では、中世非人の萌芽が古代においてみられるということは首肯しうるものの、これまでの部落史に慣れた者にとっては、律令のもとでの良賎制との関連が気になるところであり、著者自らも「古代の賎民制あるいは賎身分については、中世非人との連関において必要が生じたときのみ、ふれることとし、古代賎民制そのものは研究対象としなかった」と断わりをいれられているが、やはり従前の通説的見解への言及程度はあるべきではないかと思う。

 また、今日の部落史研究の地域的広がりは、近世近代の部落の全容を単独の書物で詳細に論じることをきわめて難しくしているが、古代中世の移行期については、奈良と鎌倉を含めておくことでほぼ全体を視野に入れた論としてもよいであろう。

 本書において地域の具体的な像が叙述されているのが、京都周辺域に限定されていることは、著者の研究の歩みが京都を中心としてきたことからして無理ないことであり、あえての注文になってしまうが、この時代では地域的動向への見通しを加えていただきたかった。

 第2章は質的、量的に本書の根幹をなすものである。その背景には中世から近世への流れをどうみるのかということが、近年の部落史をめぐる盛んな論議の中心にあり、著者が基本的に賎民集団の連続を認めるべきとの立場をとってきたことがあったとしてよいだろう。

 『京都の部落史』全10巻の刊行をすすめられている段階から、諸賎民が京都周辺においては集団としての連続を示すことを著者は強調されてきたが、その主張は、本書という形をとったことで、天部村など従前の研究でほぼ解明されてきたものだけでなく、全体として実証作業をともなう論となったと評価される。

 なお、近世から近代への移行期については、前述のように1節のみでなり、全体の構成からみると、他章にくらべると論旨の展開と膨らみに欠ける印象はのがれがたいが、ある機会に著者から、自身としてここにはもう1本加えたかったということをお聞きしており、今後の仕事としてどのような姿を提示されるのかを待ちたいと思う。

 前近代、近現代それぞれの分野における研究の深化により、明治維新から解放令の発布の前後で部落をめぐる状況がいかに変化したのかということに強い関心がもたれるようになり、近現代社会における部落問題の成立という点では、中近世の時代間の差異よりも、近世と近代のそれに重きをおくべきという意見も出されている。

 また、近世の中期から後期にかけて穢多非人などへの賎視が強まるとの従来からある指摘を、著者はどのようにみているのか、本書では、はかりかねるものもある。この重大な移行期をいかにとらえるべきなのか、著者にさらなる論の展開を期待しているのは評者ひとりではない。


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3

 最後に、著者の「はじめに」の文をてがかりに、部落史研究にしめるべき本書の位置づけを考えてみたい。

 著者は、本書の基本的視角が、近年では近世賎民制の前提に、古代賎民制とは断絶して成立した中世非人身分をおく見解が有力になりつつあることをふまえ、「中世非人身分論を基本的にうけつぎ、その成果のもとに被差別部落史を展望しようとする」ことにあるとしている。

 1972年に黒田俊雄さんが提唱された中世非人身分論は、発表された当時から部落史研究上に新しい理論の枠組みをもたらすものとして評価されていたが、その延長に著者の一連の研究が重ねられたことにより、枠組みの妥当性が確認されたとしてよいであろう。


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 もう一点、加えておきたい。書名の被差別部落を著者は「日本の前近代社会においてエタ・非人あるいは宿・散所・鉢叩(鉦叩)・隠亡など、もっとも賎しい存在とみなされて社会的に排除された人びとが形成した地域」の意味と説明しているが、これは、とくに前近代において「社会よりもっとも賎しまれた身分として古代の賎身分と中世非人身分との間には共通性があり、それを軸にして古代の賎身分より説きおこして近世にいたる「日本賎民史」の構想はたてられてしかるべき」との見解につながって重要である。というのも、奈良県における部落史の見直し作業の中心をになわれた吉田栄治郎さんの主張(「「ある種の違和感」はどこからくるのか」『部落解放』、2000年3月、467号)にみられるように、部落史研究が近世の穢多非人とその系譜につながる地域を主たる対象としつづけてきたことの限界が明らかになっている。

 これを克服するには地域に生活した人びとの間でつくりだされる社会関係を仔細に検討し、その地域の歴史像をあらためて結びなおす作業を重ねることが迂遠ではあるが不可欠なのであり、本書がその方向を示していると評者は考えるものである。

 研究によって示される部落史像が多様化し、議論がまとまらないことで、教育や研修での部落史の活用が容易でなくなったというむきがある。たしかに新しい研究成果があらわれると、それが一般に普及し浸透するには、媒体するものとある程度の時間が必要である。

 しかし、今日の部落史をめぐる議論の分裂は、歴史像を共有化するために必要な、理論と実証の2段階の手続きが多くの場面で混同され、整理されないまま時がすぎ、なかば放置された状態にあるのではないだろうか。

 著者は、みずからの成果をその乏しさに驚くほどといわれるが、部落史の見直しの渦中にありながら堅実に歩んでこられた道筋を現時点でひとくくりのものにされたことで、今後は、従来よりはるかに広い分野にわたって研究と議論が繰り返されるものと推察する。つぎになるべき「日本賎民史」が一日でも早くわたしたちの手元に届くように、山本さんの一層のご活躍を願うものである。