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『大阪の部落史』第7巻(史料編 現代1)が刊行された。『大阪の部落史』全10巻の第1回配本であり、対象とする年代は、1945年の日本の敗戦以降、高度経済成長が本格的にはじまる1960年までである。
日本の歴史の中で、1945年をはさんだ戦中・戦後の10数年間の史料の散逸・消滅の度合いは酷いものである。空襲による史料の焼失、敗戦にともなう書類の焼却、戦後の庁舎や住宅の増改築のさいの廃棄、加えて劣悪な紙質による文書そのものの変質・摩耗などがあって、私などは戦中・戦後の10数年の時期を史料収集の観点からは最困難期と考えている。決して大袈裟ではない。町村会議員の氏名が分からない。
町村会議事録はほとんど存在しない。首長の事務引継書も見当たらない。また、1946年4月の戦後第1回の総選挙における立候補者の町村別得票数を知るためにどれほどの努力を必要とすることか。
町村レベルでの農地改革の分析・叙述はまず無理といってよい。町村合併関係史料さえ行方不明の場合がある。部落問題・同和問題の史料も同じである。
それだけに、1945年から60年を対象とした史料編が『大阪の部落史』全10巻の先頭を切って早々と刊行されたのは、驚異的な出来事というべく、関係者の労苦はなみたいていのものではなかったと推察する。
本書の「はじめに」に「本史料編は、原則としてこれまでに活字化されていない新規史料を基本に選択し、必要最小限に限り既刊の史料集に掲載されているもので一部分を補い、全体として戦後の大阪の部落史像を描けるように配慮した」とある。「新規史料を基本」「戦後の大阪の部落史像を描けるように」との文言から、編纂にあたっての並々ならぬ意欲がうかがわれる。まずは大変な仕事が出来上がったことに敬意を表したい。
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本書では、史料を生活実態、仕事、在日韓国・朝鮮人、差別意識、運動、行政、教育、文化、市町村合併の9つのテーマに分けて収録している。「3 部落と在日韓国・朝鮮人」「9 市町村合併をめぐる問題」などのテーマが独立しているのは、既存の部落史から一歩踏み出した新しい試みである。そして、往々にしてこの種の本は難解なものになりがちだが、本書は読める史料集となっている。
たとえば「1 生活実態の諸相」では、貧困で不就学も多かった部落の状況が明らかにされているが、不良住宅地区調査などとあわせて、戦後民衆生活の重要な一面をうかがうことができる。住吉、池田市の調査記録の書き込み部分は有益であり、その他、ひとつひとつの史料が私たちに語りかけているという感がする。
1953年の日教組教研大会で報告された「ガラス玉工業と年少労働」(史料番号7、以下同じ)は、短文ながら、明治期の『職工事情』『日本の下層社会』や大正期の『女工哀史』を思わせる凄味がある。下部組織から府県レベル、全国へと積み上げていく教研集会では、教師たちの実践に裏付けられた調査報告が膨大に生み出された。この泉北模造真珠(人造真珠)に関する報告もそのひとつであった。
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「2 仕事と労働の実態」に「大阪における人造真珠・簾工業の現状」(21)が収録されている(本書では簾工業は省略)。この史料は模造真珠の沿革、生産工程、資材、技術などについての大阪市経済局の綿密な調査報告である。さすがに立派なものである。
しかし、この公機関がおこなった調査では、右の教研集会の報告で明らかにされたような年少労働の実態を知ることはできない。戦後史の研究において、教研集会での発表・討論に注目する必要があることを痛感した。
なお、「2 仕事と労働の実態」には、大阪府の「経研資料184」から「年少労働者の使用形態」(36)が抽出されている。この中では「身分的差別の下に置かれ就業の自由を享受しえない地区の貧困家庭から出る年少労働力」にも触れている。
ところで、この史料の本書における標題は「大阪府が竹簾工業の労働力基盤などを調査する」である。これは本書にしばしば見られる不適切なネーミングの一例である。目次に掲げられた標題からは、内容を全く推察できない。竹簾工業の労働力への言及はほんのわずかなのである。
同じく「2 仕事と労働の実態」には、1956年12月から翌57年2月にかけて、大阪府政上の大問題となった金属くず営業条例に関する史料(30〜34)が収録されている。
この条例については、本書の「解説」によると「これまでの戦後の運動史では触れられていない」とのことである。これを機会に、基本的人権の侵害か否かをめぐって、府議会の内外で大きな論議をよんだ金属くず営業条例問題に関心が寄せられることを期待する。
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「5 多様な運動の再出発」は、戦後の部落解放運動がどのようにしてスタートしたかを明らかにしようとしている。冒頭の史料(70)は、1946年(昭和21年)1月8日付けで同和奉公会大阪市支会西成区分会代表者斉藤順次郎の名で大阪市長中井光次宛に提出された申請書である。
戦災で閉校中の開国民学校の校舎を「製靴及之ニ関スル共同作業場等」に使用許可の申請であり、使用理由は「昭和20年3月13日戦災ニ依リ近府県エ疎(ママ)開セル多数ノ同和同人モ終戦後追々復帰シ来ルモ住家ト職場無ク困難致居故今回同和奉公会西成区分会ノ事業トシテ開国民学校ノ講堂焼跡コンクリート建ノ内部ヲ補修シ共同作業ヲ起シ彼等生活ヲ安定セシメントス」とある。日中戦争期の経済更生会活動の復活を思わせる製靴共同作業場構想である。
戦争が終わった1945年度は、融和事業完成10箇年計画の最終年度にあたっていた。1946年3月20日、厚生省は次官通達「同和事業ニ関スル件」によって、同和予算の打ち切りを宣言した。その少し前、3月16日に同和奉公会は解散を決めた。同和奉公会大阪市支会は3月31日をもって解散した。
このような同和行政の消滅段階において、西成区分会は「多数ノ同和同人」のため共同作業場を起こし「彼等生活ヲ安定セシメン」とした。いかなる状況下でも、部落大衆の生活擁護のための活動が続いていたのである。
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「6 同和行政の継承」の冒頭の史料(99)は、1946年12月の大阪市の『市長・助役事務引継書』からの抜粋である。ここには「福利課内同和奉公会大阪市支会は官民協力の団体であったが時局の要請に依り之を昭和21年3月31日を以て解散」「現在本団体は民間団体となり部落解放委員会大阪市支部の名称を以て事業を実施している」との文言がある。
次いで収録の1947年7月刊の「大阪市社会事業要覧 昭和21年版」の「同和事業」の部分(100)には、「同和奉公会大阪市支会は昨年3月解散し、目下民主化せる団体結成の途上にある」と記されている。
戦中の同和奉公会の民主化イコール部落解放委員会結成と把握されているのである。このような戦時下と戦後の連続性は、歴史の一面の事実として認めなければならない。
その上で、地域で解放委員会、または部落解放同盟の支部結成までの過程を知る必要がある。代表的なものとして「矢田支部関係資料」(97)をあげておく。
1958年9月に結成された矢田支部の経過報告に記されている苦闘の歴史は感動的であり、教訓的である。ほかに「3 部落と在日韓国・朝鮮人」「4 受け継がれる差別意識」「8 部落内外の文化の営み」など、感想を述べたい箇所があるが、今回はこの程度で終えることにする。