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書 評
 
評者入江宣子
部落解放研究131号掲載

乾武俊著

黒い翁―民間仮面のフォークロア(2)

(解放出版社、1999年4月、A5判、233頁、5,000円+税)

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 このたび『黒い翁』の書評をというお話があった時、最初「とても無理です」とお断りした。理由はふたつある。ひとつには、30余年前、能の「翁」関連のつたない論文を書いて音大を卒業した私は、「翁」がいかに謎に満ちた存在かをいやというほど知っているからである。

 卒業後各地に散らばる民俗芸能のさまざまな芸態の翁を知れば知るほど、関心はもちながらも自らのテーマからは遠のけてきた。

 ふたつには、本著は純粋な学術論文ではなく、しいていえば評論の体裁をとっており、各所にはめ込まれた著者自身の回想を含め、一語一語がふりしぼるような魂の告白の書なのである。このような「重い」本を浅学若輩で文章作法も知らない私ごときが、軽々しく書評などできるものではない。しかし再度のお話に重い腰を上げたのは、やはり「翁」が気になるからである。

 能の「翁」は「能にして能にあらず」といわれる。千歳・翁・三番叟の3部分からなり、翁(白い翁)は能役者の、三番叟(黒い翁)は狂言方の分担、千歳は流派によって両者あるが、狂言方担当が古型である。

 年のはじめや新しい劇場のオープンなど特別な場合にのみ演じられる祝福芸能であり、研究者は「翁猿楽」として、物語性のある現行能狂言とは別の芸能と考えている。一方田楽や田遊び、延年など民俗芸能のなかには、能「翁」の先行芸態を含め「黒」や「白」のさまざまな性格の翁が登場する。その変形の著しさゆえに、一般には「翁」とは思われていない芸能も多い。

 著者は長年にわたる、実際に被差別部落に足を運んでの芸能研究から獲得した独自の視点で、大胆に変形翁の性格付けを断行していく。


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 本著は、第1部民間仮面のフォークロア、第2部3つの能(1黒い翁、2道成寺、3弱法師)からなる。第1部で著者は、黙して語らない古い民間仮面から驚くほど奥の深い民衆の心象風景を読み取り、「黒い翁」に備えて多くのキーワードを配置している。例えば被差別部落、「黒」「白」、万歳楽、うそふき面、烏天狗、那智の田楽など。

 そして本著のメインタイトルでもある「黒い翁」の章は、前章を引き継いで那智の田楽番・外・の演目「シテテン」からはじまる。読者にとってこの導入はまことに唐突に思えるが、著者は現地発刊の詳細な記録に「シテテンはあるいは翁に相当するか」との文意を発見し、自らの見通しにますますの確信をもつ。

 「シテテンは翁である。この重要な仮説から芸能の深層に入っていく。」かくて翁の謎に迫るべく著者の鋭い直感に導かれて読み進むこととなる。その鍵は仮面であり、なかでもしでやしゃぐまで顔を隠した芸能者であり、ゆがんだうそふき・ひょっとこの面である。

 福井県水海の田楽能舞では、しゃぐまで顔を隠した「あまじゃんごこ」と、「空虚な眼窩を」もった「漆黒の面」をつける「阿満(あま)」に注目する。囃子方が繰り返す単調な掛け声にのって3人のびんざさら役が右に左に止まることなくゆるやかにまわって、時間にすればほんの数分で終わるきわめて単純かつ不思議な「あまじゃんごこ」を私は何度も見ているのだが、「「ケガレ」(ケ離れ)た存在はつねに顔をかくす。

 「シテテン」の紙幣も「あまじゃんごこ」のしゃぐまも「細男」の白布も仮面である。その「あまじゃんごこ」をもどいたのが「阿満」であって、ここに「黒い仮面」が発生した」とする著者の指摘は、はじめは戸惑いでもある。

 しかし兵庫県上鴨川の神事舞では、 口をつぼめ黒くゆがんだ「万歳楽」の隠された仮面を三番叟と比定し、さらに能「翁」が内蔵する数々の謎に解答を探っていく、その文学的にも計算されつくした筋運びは、大変スリリングであたかも推理小説を読むようである。


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 かくて「黒い翁こそが翁の源流であり、しかもゆがんだうそふきの面こそ翁面の古い形」と結論し、さらに奥三河の花祭の翁の、現行では時間短縮されて語られることがない長い語りの中に、「えったは穢多」という差別文言を発見するのである。

 祭りの場に居合わせるみなみなから執拗に「御礼」を要求される、痛ましくもわびしいキヨメの翁面は、日本芸能史上祝福芸の担い手たちが長年受けてきた被差別体験と重なる。著者ならではのまことに貴重な視点である。

 学術論文であれば、能勢朝次著『能楽源流考』以降の深化した研究成果や民俗芸能の蓄積されたデータにあまり触れていないのはほめられたことではないが、著者は「あえてそのことは問わず」、太平洋戦争前夜の学び舎で教えを受けた態勢とのつながりを確認しつつ、「その視座から」思い切った情報の取捨選択で自らの芸能論・仮面論を展開する。多用される「もどき」の意味、田楽との関連など、個人的にはもう少し詳しく教えていただきたいこともあるが、多すぎる情報量でかえって行く道を見失うこともあろう。

 近世末期、大和猿楽の発祥の地、奈良興福寺・春日大社の祭礼で翁を演じていたのは、式楽として武家の禄を貰っていた晴れがましい能役者ではなく、寒さに鼻水を垂らしながら薄汚れた装束で舞う年ねん預よ衆と呼ばれる翁専門の芸能者であったと他の研究書は伝える。ここにも祝福を授ける芸能者の両義性が垣間見える。