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書 評
 
評者角田尚子
部落解放研究128号掲載

中村拡三監修、解放教育研究所編

シリーズ解放教育の争点(3) 人間解放のカリキュラム

(明治図書、1997年10月、A5判、255頁、2,400円+税)

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1

 書評を書くのは初めてである。書評というのはいわば「他己紹介」である。ワークショップでこのアクティビティに取り組んだことのある方はおわかりになるだろうが、2人1組で互いのことを紹介しあった後、相手のことを全体に対して紹介するという方法で、ポイントは、1 相手の話で印象深かった点に内容をしぼりやすい、2 相手のいいところに注目する、3 聞く姿勢を育てる(初対面の人のことについて話さなくてはならないのだから、当然聞き方は変わってくる)にあり、その人に対する「知りたい」「この人には何かある」という気持ちが全体に生まれるようにすることが進行上必要な配慮である。

 この場合の「聞く姿勢」というのは、要素的・批判的・分析的・攻撃的・自己防衛的に聞くのではなく、共感的に聞くことをしなければ、いい他己紹介にはつながらない。

 わたしは参加型経験学習やワークショップのファシリテーターを仕事にしているため、ファシリテーターとしては、参加者の意見や感想・気づきなどに心を傾けて「聞く姿勢」、参加者を信頼し丸ごと受け止める態度については人並み以上にできていると自負している。

 しかし、活字メディアについては、これまでアクティビティの紹介や進行の仕方について以外でまとまった文章を書いたことがない。出版社から「参加型で教える環境教育」という本を書いてみてはどうかというお誘いを受けた時も、活字メディアでの限界を強く感じてしまったために、実現しなかった経緯があるくらいだ。加えて、本来のわたしは人間が辛口にできている。

 活字メディアについてはいいとこ取りの要素的な読み方、自分の枠組みに照らしたり、意見や考えと引き比べた批判的・分析的な読み方、どこか文句をつけられないかと探る攻撃的な読み方しかしていないのだ。

 そんな自分を基準に考えると、活字メディアは受け手の側がどのように受け止めているかを書き手がチェックすることができないために、共感のコミュニケーションのツールになりにくいのではないかという懸念が付きまとう。


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2

 で、しかし、「他己紹介」である。とすれば、いつもの読み方ではなく、共感的に読む姿勢から、わたしが受け止めたこの本の紹介でなければならないのではないかと思う。この本と出会ってやろうという気持ちや、興味・関心をもって欲しいというメッセージが伝えられれば幸いである。

 『人間解放のカリキュラム』はシリーズ解放教育の争点全六巻の内のひとつとして、解放教育とは何か(=第1巻『解放教育のアイデンティティ』)、解放教育の課題に応えるために(第2巻『人間関係づくりとネットワーク』第4巻『解放の学力とエンパワーメント』)、これからの解放教育の方向性(第5巻『地域教育システムの構築』第6巻『解放教育のグローバリゼーション』)の3つの柱から考えると、2つめの問いにぜひ応えるべき位置付けにあるだろう。

 すなわち、解放教育を同和問題における被差別者を対象とした教育から人間解放の教育へと「解放」したアイデンティティの変換を踏まえて、より広い視野から対象を普遍化しつつ、個別の差別についての理解と共感、差別を許さない社会形成の必然へとつながるカリキュラムとはどのようなものかを考えるための視点が求められる1冊であるといえる。

 その意味では、この本は実際のカリキュラムの内容や枠組みについて、これが最善であるという事例やモデルを提示していないという面からは十分に期待には応えていない。そんな安易な答え、あるいは勇気ある答えを与えてくれているものではない。

 といえるものの、これから実際にどのような教科時間の枠組みで、どのようなプログラムを取り入れていくことが可能であるかの考え方を現在の実践から示し、また、人権教育に関連すると思われるさまざまな教育思潮を海外の実践家からの寄稿も含め紹介しているという点からすると、示唆に富んだものになっている。

 何よりも、この本の第3章「人権学習のアンブレラ構想」に紹介されているこれら多様な実践すべてが「人間解放」「人権教育」にかかわることなのであるということ自体が「解放教育」を普遍的な教育課題に取り組む教育実践へと解放してくれるものだと思う。


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 解放教育、あるいは人権教育の教育方法論として、「参加型学習」あるいは「参加体験型学習」というものが、カリキュラムの経験主義化的手直し、あるいは学習者の生き生きとした学習の事実に支えられて、クローズアップされてきていることを、この本の著者らは指摘している。

 森は「参加型学習」とのみ表現し、それは学習者による知的探求の方法論であると、非常に広い意味で使っている。また、下村は、「参加体験型学習」という表現で、ワークショップで学んだシュミレーション・ゲームを教室で実践したものを紹介している。

 評者は、ワークショップや参加型研修で教員養成にかかわるものとして、「参加型」についての用語をもう少し整理すべきであると考える。「参加型学習」を「知的探求の共同作業」であり、フィールドワークや聞き取り調査も「参加型学習」に入るとする広義な用語は、それとして、「被差別模擬体験ゲーム」のような活動をどうとらえるかが大きく評者とは異なっている。

 確かに、ゲーム的な感覚で学ぶのであるが、これらの学習活動(アクティビティと呼んでいる)は、明確に伝えたい「概念」があり、だからこそ、その組み立ての中に気づきと発見が用意されているものなのである。体験したことをふりかえり、そしてそこから法則性や概念、理解の枠組みを構築していくことができるのが、優れたアクティビティである。参加型の手法と、概念との交点に位置するものである。

 そして、そのようなアクティビティを活用する教育方法を「参加型経験学習」と評者は呼んでいる。体験から経験へと導く教育的手だてを持って、指導しなければならないのがアクティビティなのである。

 ぜひ、用語の統一について配慮していただくとともに、体験学習ではなく、経験学習につながる指導方法を身につけることの重要性が解放教育・人権教育においても認識されていくべきであると考える。

 評者は、そのようなアクティビティがいくつか連なって構成したものをプログラム、いくつかのプログラムが構造化されて構成されたものをカリキュラムと呼んでいる。したがって、アクティビティにとって大切なのはコンセプトであり、プログラムで大切なのは構成のストーリーや流れであり、カリキュラムで重要なのは構造や枠組みの柱である。

 参加型経験学習と、参加型手法のさまざまな組み合わせで、学習者に大切なコンセプトや概念を伝えながら、学び、考えるスキル、協力するスキル、分析するスキルなどの思考力、コミュニケーション・スキル、参加のスキルが身につくのが「参加型学習」であると評者らは考えている。

 参加型学習に対する関心が高まっている現在、大切なのは実践的に使えるわかりやすさであると考える。「シリーズ解放教育の争点」は、ともするとその分厚さのためだけからも「わかりにくさ」「とっつきにくさ」という隠されたメッセージを伝えかねない。編者らの一層の努力が求められるところであると考える。

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 最初にお断りしたように、読者としてのわたしは多分に辛口で、厳しいことばかり書いてしまったが、この本が指摘するように、いま教育は転換が求められている。「学ぶことが苦痛」の時代から「学ぶことは楽しい」という知的・実践的楽しさが、学校の自由裁量の時間に生み出されることが求められている。

 学校自由裁量に任された内容で総合的学習の時間がもてるようになった今、これまで、道徳で、生活科で、社会科で取り組まれていた人権教育の実践をてこにどこまで学校を解放することができるか、ぜひ、この本に含まれるさまざまな激励を受けて、一人ひとりの教員、仲間としての教員集団、そして、ひとつひとつの実践の現場、学校で考えていっていただきたいと切に願うものである。