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書 評
 
評者中島通子
部落解放研究135号掲載

木村涼子著

学校文化とジェンダー

(勁草書房、1999年10月、46判、273頁、2,700円+税)

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現場の調査研究に基づくジェンダー分析と解放への視点

 「学校で性差別が再生産されている」といわれるようになって久しい。平等主義が貫かれているはずの学校で、ジェンダーという性別カテゴリーによって、女の子と男の子は異なる存在として育てられ、社会に送り出されていく。その実態を明らかにする取り組みは、教職員や女性運動グループによって行われ、家庭科の男女共学運動、男女混合名簿の運動として広がっていったが、女性学の研究者による本格的な調査研究は少なく、外国の調査を紹介するにとどまる傾向があった。

 ところがいま私たちは、本書によって日本の学校現場の観察に基づく、ジェンダー形成の実態について、本格的な研究成果を手にすることができたといえる。本書の第1の意義はここにある。

 幼稚園からはじまる学校教育の場で、「まず、男の子はこっち」「次に、女の子はこっち」という教師の指示による男女別の座席指定から、名簿、男子優先の学校慣習、役割・学習内容の性別特性、教師と生徒の相互作用における性差などのいわゆる「かくれたカリキュラム」まで、具体的な学校観察や子どもたちの意識調査に基づく分析は、これまで男女平等教育に取り組んできた教職員をはじめとする多くの人びとに、理論的な支えを提供してくれるだろう。

 さらに、「自分は女性差別なんかしていない」と思っている人びとにも、多くの示唆を与えてくれるにちがいない。「ジェンダー・フリー教育」というと、男と女を画一化する教育だと誤解したり、「女の子のほうが元気なのに」と疑問を呈したりする人びとへの疑問にも答えてくれる。

 さらに幼児・初等教育段階では性別カテゴリーを引き継ぎつつも、男女均質化の原則が支配するが、中学校に進学する段階で、性別の差異を強調する文化が思春期という子どもの発達段階ともあいまって展開され、高校段階ではそれが学校・学科選択によって本格的に展開し、卒業時点での高等教育機関への進学の有無と進学先の選択によって、最終的な性別分化が完成するという。

 そして、このような学校文化とマスメディア産業によって形成されるジェンダー秩序は、男性と女性を資本主義社会における多様な労働力商品として労働市場/婚姻市場のふさわしい位置に配置していくと、鋭く分析している。

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 しかし本書の意義はこれにとどまらない。

 第2の意義は、ジェンダーと階級・階層や人種の観点を統合させようとする第3の波ともいうべきフェミニズムの新たな潮流を紹介し、その重要性を主張していることである。

 著者は差別の現状をできるだけ総合的に把握するためには、階層差や部落差別をはじめとするさまざまな社会的差別を視野に入れることが不可欠とし、複数の権力関係が錯綜する場として教育をとらえる必要を強調している。

 具体的な調査研究においても、階層グループごとに男女の集団のカテゴリー分けを行い、両親の学歴・父親の職業と子どもの自尊感情や進学希望の調査を行い、学校教育における経験の男女差だけでなく、女子内部の階層による違いも軽視できないと指摘している。

 さらに、女子の進学率の上昇という現象を性差別の観点から評価すれば、女性の教育機会の拡大・地位の向上というプラスの側面でとらえることができるが、そこに階級や階層という観点を組み込むならば、その恩恵を受けているのはミドル・クラスの女子に限られており、その増加分の清算は労働者階級の男子の排除という形でなされるというイギリスの調査を紹介し、日本でも同様の現象が生じている可能性が高いという。

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 かつて、階級・階層や人種などの社会的差別に対するたたかいのなかで、女性に対する差別は小さな問題、2次的な問題とされ、本来的な差別からの解放が優先されるべきといわれてきた。性差別は、それらの差別の基底に貫かれながら、後まわしにされるだけでなく、差別と意識されることさえなかった。

 著者がいうように、「黒人はこっち、白人はあっち」、「ブルジョアの子どもは先、労働者階級の子どもは後」といったカテゴリー分けは現在想定しがたいが、「男の子はこっち、女の子はあっち」という男性優位の性別カテゴリー分けが、長年にわたって当然視されてきたのである。

 だからこそ、第2波フェミニズムは、すべての分野に貫かれている性支配を告発し、その変革をめざしたのだった。1970年代のはじめからその運動にかかわってきた私は、女性が進学したり、やりたい職業につき、昇進・昇格することに対し、「エリート主義」と非難する男性たちを容認できなかった。

 しかし同時に、女性が男性にとってかわるのではなく、女性が産むことや生活を営むことを丸ごと抱えたまま労働の場に出ていき、性分業を変革することによって、現在の資本主義社会のシステムを変革したいと夢見たのだった。

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 現実は、社会主義国家の崩壊後アメリカ中心の経済のグローバリゼーションが進み、まさに弱肉強食の市場原理万能主義が社会を支配している。そのなかで女性の労働市場への進出は進んでいるが、その過半数がパート、派遣、契約社員という低賃金で不安定な身分の非正社員である。労働市場の流動化は男性をもまきこみ、人生80年時代に妻子と親を扶養できる男性も減少している。

 このなかで、いまあらためて必要とされるのが、ジェンダーのみでなく、階級・階層や人種などの社会的差別の視点を総合した支配抑圧構造の変革である。それはどのようにして可能か、簡単に答えが出るはずはない。

 しかし少なくとも、ジェンダーの解消のみによって問題は解決しないし、著者も指摘するように、近年政府が進める「男女共同参画」というあいまいな概念の下で、学校教育はセクシズム原理は貫きつつも、男女ともにより一層柔軟な労働力として養成することを国家から期待されることになりかねない。

 この点に関連して、本書の終章では、産業構造の転換と高度経済成長の終焉によって、従来の学校教育システムは破綻をきたしつつあり、学校と労働市場のあり方は、階級とジェンダーの両面から変革を求められている、と述べられていることも注目される。

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 本書の意義として最後にあげたい点は、子どもたちをセクシズム文化の下で受動的に形成される存在として見る立場から、形成されると同時に能動的に発達していく存在として見る方向へ視点を転換させる必要性を述べていることである。

 その視点から、現在の学歴競争中心の学校文化の見直しや、サブカルチャーにおける男の子と女の子のアイデンティティ形成について分析している。さらに、「なぜ女性は女性役割を受容するのか」と問い、虚偽意識仮説、合理的選択仮説、適合化仮説の3つの仮説を分類し、検討を行っている。

 その結果、右の3つの仮説のいずれか1つによって説明することは困難であるという。そして、現実により近づくための調査研究は、女性一人ひとりが自分たちの経験する現実をどのように認識しているか、彼女たちの視点に沿って理解することと、研究者の側の現実構成との相互作用的なものであるとする。著者の研究者としての真しな姿勢に感銘を受ける。

 「主体」をどうとらえるかは、私にとっても最も重要な課題である。著者はあとがきで、「構造に規定されつつ、構造に能動的に働きかける存在として主体をとらえたいとかんがえる一方で、自分の頭の中にある、主体と構造の区別そのものが疑問視されるべきではないかという思いもある」と書いている。

今後の研究に心から期待したい。