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今、各学校では、2002年からはじまる新学習指導要領の移行期を迎え、教育課程についての議論が活発に行われている。「総合的な学習の時間」のとりくみをはじめた学校で例外なく議論になるのが「評価をどうするのか」という問題である。
「総合的な学習の時間」の評価については、長尾彰夫が本書第1部教育評価の構図2教育評価のポリティックス分析で教育課程審議会の答申を引用し、次のように述べている。「『総合的な学習の時間』のねらい(略)からして、その評価が5・4・3・2・1といった評価になじまないことは当然であろう」「『総合的な学習の時間』で展開される教育活動は、いわば学校と教師の自己責任の下で展開される。そうであれば、その目的と成果を教育評価を通して明らかにしていく責任を学校と教師は自ら引き受けていかなければならないのである。(略)
『総合的な学習の時間』の登場による教育評価論へのインパクトは、単にその部分にのみ止まるものではない。そこには、教育評価をめぐる新たなポリティックスの構造を、いかにとらえていくかという、次なる課題の提起のあることを見ておかねばならないのである」。
教師たちは、このようなクリアな問題意識をもっているわけではないけれども、「総合的な学習の時間」をきっかけとして、評価について深く考える時を迎えている。
今、議論されていることは、「総合的な学習の時間」評価をどうしたらよいのかということにはじまり、評価とは何なのか、教育評価はどうあるべきなのかということにつながっていっている。本書の発行は、実にタイムリーである。
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さて、本書は、長尾彰夫、浜田寿美男、志水宏吉、本田(沖津)由紀、鹿毛雅治、堀家由妃代の六人が「教育評価委員会」で2年間にわたって共同討議を行い、それに基づいて執筆されたものである。それぞれが専門の研究をふまえた論点で、明快に主張を述べており、とても理解しやすい内容となっている。構成は3部6章となっている。
第1章で、浜田は、学校における学習と評価の回路について、本来は<学習―評価―学習>であるべきだが、現実には<評価―学習―評価>というふうに逆転してしまい、「評価の一人歩き」がはじまり、「学ぶ意味」が見失われていると述べている。また、評価を3つのレベルで整理している。評価についての議論が混乱をするのをさけるには、このように整理して考えることが重要である。
第2章では、長尾が、教育評価をめぐるポリティックス分析を行い、次のように述べている。「教育評価の原基ともいうべき指導要録において生じている、指導のための評価と対外証明のための評価という教育評価論としての矛盾が、国家のカリキュラム政策の中核である学習指導要領によって『止揚』されていくこと、そしてそのなかで仕組まれている、教育評価をめぐっての複雑な権力関係の構造をこそ分析していかなければならないのである」そして、指導要録を手がかりに、戦後の教育評価政策について分析している。
そして前にも引用したように、「総合的な学習の時間」の登場が教育評価の新しいポリティックス構造を生むとしている。自らの教育要求の保障を求め、それを確認していくための評価、すなわち「権利的評価」への注目という新たな提案が斬新である。
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第3章では、鹿毛が「学びの場で経験される評価」について、具体的な実験や研究、観察を豊富に示しながら論を展開し、「『過程重視』『活用重視』の考え方に立ち、教師と子どもをともに『問題解決としての評価』の主体と位置づけ」、「問題解決としての評価を繰り返すこと、思考を停止することなく関わり続けることによって、豊かな学びが生まれる」と結んでいる。この結論に至るまでの豊富な資料には大変引きつけられる。
とりわけ興味深かったのは、「『評価』は学習を促進するのか」というテーマでの成績条件と確認条件の学習への比較研究(鹿毛、1993)、評価をめぐる教室のダイナミックスを具体的に描き出したフィールドワークの紹介(金子、1999)授業評価としてのリフレクションシートを用いた取り組み(江原、1998)である。浜田のいう一次レベルの評価のポイントをおさえ、授業で具体化していく道筋が明確に示されている。
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第4章では、堀家が、「できる―できない」という軸に価値をおきすぎないことを主張している。サマランカ宣言にも言及し、形成的評価を組み込むことの検討を呼びかけている。
第5章は、本田による教育内容の「レリバンス」問題についての論文である。レリバンスは、有意性、関連性、適切性というような意味である。日本社会での教育内容のレリバンスの検討・吟味の阻害の背景や要因の分析をしている。こういう分析の切り口もあるのかと思わせられる。私にとっては、とても新鮮であった。
本田は、教育評価を教育―学習行為および教育内容に即したものに引き戻すことによる教育内容のレリバンスの回復を提案している。179ページから185ページには、「教えていないことは評価しない」、「レイマン・コントロールの導入」などの具体的な提案がたくさん詰まっていて興味深い。
第6章は、志水が選抜と評価について論じている。はじめに、教師に対する評価についてのアンケートから「子どもを教師が評価するなどおこがましい」「私は教師だ。評価師でもないし、評定師でもない」「現在の評価自体が適格者主義に基づくものであり、口ではそうではないと言いながらも、子どもをランクづけし、差別・選別にわれわれ自身が加担している」ということばが引用されている。
これらは、しばしば聞くことばであり、評価についての議論を空中分解させるものであると私は思っているのだが、このことばの分析にはじまる志水の論の展開は力強く痛快である。
「彼らは、評価を『ダーティーワーク』とみなし、自分の意識の中から否定しようとしている」しかし、「現代の日本社会では、学校内での評価は社会的な選抜の過程と密接にリンクしているのであり、教師も十分それに自覚的であらねばならないということである。必要なのは(略)社会の動向をにらみながら『腹をすえて子どもたちを評価していく』という決然とした態度である」と明快に断言している。
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続いて、日本の選抜システム、大学入試、高校入試の改革の方向について論述し、何よりものぞまれるのは「教師たちの評価観の転換」であると述べている。志水が結びで強調しているように、「学校は社会の選抜構造に抜きがたく組み込まれているという事実をまず押さえたうえで」、「教師は、評価という営為の限定性を自覚しつつも、教職という専門職に携わる者としてのプライドをもって、評価活動に当たらねばならない」これはまた、本書全体を貫いている主張でもある。
各章それぞれについて、興味深く読んだところを紹介してきた。「おわりに」に書かれているように、本書は、「教育評価改革のための提言」のために集まった6人によって書かれたものであり、それぞれの主張がある。
異なる主張が混在している本書は、これから本格化する評価についての議論に多くの視点を提供してくれている。研究者レベルとしては、次の段階の白熱した議論も望みたいところではあるが、教師自身も教育評価についての研究や議論を深めていかなければならない。