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副題「変貌する教室のエスノグラフィー」に本書の狙いが端的に表現されている。「エスノグラフィー」とはフィールドワークの手法による調査研究ないしその成果をまとめた報告書のことで、観察対象を可能なかぎり多角的な視点からありのままに描き出したものである。
本書は特定の小学校や特定の教室に継続的にかかわりながら、揺れ動く教育現場に密着した記録を通して、さまざまな問題点や課題を指摘しており、啓発される点が多い。
1章では、長野県内で授業改革実践の長い歴史を持つI小学校を取り上げ、「総合的な学習の時間」に密着する。
2章では、東京都内のB小学校5年生のクラスの日常生活を追いながら「評価」という行為に注目し、新しい学力のありかたを探る。
3章では横浜のT小学校で、外国人児童をめぐる教育の状況を観察する。
4章では、北陸地方T市の小学校普通学級で学ぶ「聴覚障害児」に焦点を合わせ、「統合教育」の現実を追いながら、「障害」へのまなざしを問い直す。
エスノグラファーである編著者の志水さんが3章を執筆し、彼が指導する学生や大学院生が1・2・4章を担当している。
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1章から3章へと順に読み進むうち、私は正直いって時折、不満を覚えた。紙数制限でやむをえないこととはいえ、エスノグラフィーとしての弱さを感じたからである。
地域も学校も異なる4つの事例での学校や教室の描写は断片的で不十分ではないか、クラスの児童や同僚教師、保護者などをもっと詳細に観察し取材しないと学校や教室の現実は把握できないのではないか、各事例の描写から一般的な議論へと飛び過ぎてはいないか、などなど。
ところが、4章から終章へと読み進むうちに、本書の狙いがようやく分かってきた。すでに冒頭の序章「小学校教育の変貌―社会変化のなかで―」で狙いは述べられているのだが、「エスノグラフィー」の方に気をとられていたのである。終章「21世紀の小学校にむけて―個性・学力・平等―」は序章とともに志水さんが書いている。終章は次のように書き出されている。
「われわれは、20世紀から21世紀への歴史の大きな転換点に立っている。私たちと『学校』との関係を歴史的にとらえた場合、そこには4つの発展段階を見てとることができる。『行ける者だけが行く』時代、『行きたい者が行ける』時代、『みんなが行かねばならない』時代、そして『行かなくてもよい』時代の4つである。…」
つまり、本書は学校内や教室内のミクロ(微視的)な現実についての単なる実地調査研究報告ではないのである。「変貌する教室」という観察対象に対して、片方の眼はミクロな現実にむけられているが、もう一方の眼はマクロ(巨視的)な時代・社会の変化にむけられていて、大転換期にある日本の教育システムについてのシャープな切り込みになっているのである。
だから本書は理論的で、かつ実践提言的・政策提言的でもあり、エスノグラフィーでいてエスノグラフィーではないところに、その特徴があるといってよい。
ミクロな現実を描き出すことを通してマクロを遠望するのがエスノグラフィーの手法だとすれば、読み方としては邪道かもしれないが、この終章から先に読んだ方が本書全体を理解しやすいだろう。
とくに終章を読むと、総合的学習と評価を扱った前半1・2章と、外国人児童と聴覚障害児を扱い、直接的に人権や差別と関わる後半3・4章について感じる両者の異質性がなくなり、全体が違和感なく伝わってくるはずである。
「みんなが行かなければならない」時代から「行かなくてもよい」時代へ。これはきわめて象徴的な表現ながら、含まれる意味は大きい。なぜなら、不登校の子どもの大量発生とその対処法という表面的な意味だけではなくて、近代学校制度が成立してから今日までの130年近くの間、日本の発展に貢献してきた義務教育の画一性と均質性そして学校教育至上主義が今、根本から問い直されているという深い意味を帯びているからである。
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3章と4章に共通して「同化」というキーワードが登場する。外国人児童を日本の学校文化へ同化させる。障害児を健常児の文化へ同化させる。そうした「同化」は一斉授業に基づく画一性と均質性、さらには学校教育至上主義にも内包された強い圧力であったことに気付くと、1・2章と3・4章は実は同じ基本問題に着目していることが分かってくる。
「行かなくてもよい」時代とは、この広い意味での「同化」主義から脱却することにほかならず、総合学習も新しい学力もそのための改革策であるはずだ、と本書は主張しているようだ。
この主張に沿えば、個性の尊重とか、一人ひとりを生かすといった、すでにありふれた教育目標がはたして「同化」主義の克服になりえているかどうかという点が「変貌する教室」のエスノグラフィーにとって、暗黙の視座として設定されるのは自然のなりゆきである。
一方で一人ひとりを生かすといいながら、実は教室の内部に潜む「同化」の圧力が依然としてなくなっていないとすれば、それは21世紀にむけた本当の教育改革にはなりえないからである。
マクロな時代・社会の変化に着目しながら、大転換期の学校教育に肉薄するためにエスノグラフィーの方法を用いるという本書の基本方針を確認したとしても、やはり本書にはいくつかの課題が残されていると思う。
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(1)スクール・エスノグラフィーとしての課題として、もっとさまざまな学校を訪問して、フィールドワークの裾野の広がりをつくっておくことが求められる。学校のなかに入れば、校長・教頭・教務主任のリーダーシップの現実は多様であり、教師集団のありようも多様である。
ボランティア活動も含めて保護者の取り組みも種々さまざまであり、地域の特性も驚くほど異なる。仮にある特定の学校をフィールドにするとしても、その学校や地域の特徴を相対的に位置づけたうえで、エスノグラフィーを書く必要がある。こうした基本姿勢はとくに若きエスノグラファーにとって大切なことだろう。
(2)各学校へフィールドワークの依頼に行ったときにたちまち答えざるをえなくなるのだが、何のためのスクール・エスノグラフィーか、という問いを踏まえた現地調査研究が要請される。そういう意味では「教師との協働的エスノグラフィー」(2章)という発想は重要である。ぜひ、その点の検討を期待している。
(3)スクール・エスノグラフィーは、もっと中学校でおこなわれるべきだと考える。さまざまな教育問題が多発しているのも中学校であり、教育改革が表面的ではなく、根本的になされているかどうかを検証すべきなのも小学校よりもむしろ中学校の方である。次は「変貌する中学校の教室」を是非読みたいと願っている。
いずれにしても、志水さんの手になるエスノグラフィーとしては『変わりゆくイギリスの学校―「平等」と「自由」をめぐる教育改革のゆくえ―』(単著)『よみがえれ公立中学―尼崎市立「南」中学校のエスノグラフィー―』(編著)『教育のエスノグラフィー―学校現場のいま―』(編著)に続く4冊目である。着実な研究発展を喜びたい。