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書 評
 
評者芝山明義
部落解放研究139号掲載

藤田英典・志水宏吉編

変動社会のなかの教育・知識・権力
問題としての教育改革・教師・学校文化

(新曜社、2000年9月、A5判、518頁、5,600円+税)

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 本書は、日本教育社会学会の創設50周年の記念事業の1つとして、1999年8月27日〜29日に東京で開催された国際カンファレンスの2部構成による6つのセッションで発表された論文を中心に編集されたものである。

 各セッションは、海外から招聘された招待スピーカー1名と教育社会学者を中心とした2名の日本の教育研究者の発表で構成されており、おのおののテーマと発表者は次のとおりである

 (本書では、2部構成各三セッションが第1部〜第6部へと再構成されているのでその記載にしたがう。また、( )内は2部構成のテーマである。序章と終章、発表者の敬称・所属、各セッションの司会者などは略した。なお、第5部の招待スピーカーはメグ・マグワイアであり、論文は共同研究である)。


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(第1部 教育空間の構造変容)

第1部 教育社会学の理論

「グローバリゼーションとカリキュラム―教育社会学理論における問題」ジョン・W・マイヤー/「日本の教育社会学―過去と未来」竹内洋/「教育社会学における批判理論の不可能性」森重雄

第2部 公教育の再検討

「脱出不能―公共財としての公教育」ディヴィット・F・ラバリー/「公教育の再検討」堀尾輝久/「聖なる物語としての公教育―デュルケーム理論の再考」原田彰

第3部 教育改革の政治学

「教育改革を理解する―コンドルの眼をめざして」ジェフ・ウィッティ/「教育改革理念の歴史的変容」黒崎勲/「教育政治の新時代―岐路に立つ公教育」藤田英典

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(第2部 教育実践の構造変容)

第4部 変動社会のなかの教師

「21世紀に向けてのティーチングの社会学―教師・同僚・コミュニティと社会変化」アンディ・ハーグリーブズ/「学校の協働文化―日本と欧米の比較」今津孝次郎/「変動する日本社会の教師たち―その混乱、葛藤、そして「乗り切り(?)」」久冨善之

第5部 カリキュラムと教育実践

「イギリスの教室をとりまく文脈―構造化されたアイデンティティの役割」メグ・マグワイア、スティーブン・J・ボール、シーラ・マクリー/「新自由主義のカリキュラム改革を越えて―実践的ディスコースの政治学」佐藤学/「カリキュラムと教育実践―中学校選択教科制の事例分析を中心に」田中統治

第6部 学校文化とアイデンティティ形成

「集団的アイデンティティ―学校教育への示唆」ジョン・U・オグブ/「部落生徒の文化的アイデンティティについて」池田寛/「ニューカマーの子どもたちと日本の学校文化―フィールド調査からの報告」志水宏吉


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 全体の主題(タイトル)は同じだが、副題が、国際カンファレンスでは「教育社会学のパラダイムとフロンティア」であったのに対し、本書では「問題としての教育改革・教師・学校文化」とされている。ここから本書の刊行にあたって第3部〜第6部に重心が移されたと解釈できる。

 学会の記念事業として開催された趣旨からすれば、日本の教育社会学の学としての達成や課題を検討することは重要なテーマであるが、その点に関して本書を論評することはここでの評者の課題ではないと思う。

 また、本書における副題や構成の変更は、本書の刊行が学会内部から広い読者にもむけたものであることを物語っているだろう。こうしたことを考慮して、また本評の掲載誌の性格からも、マイノリティの教育とその課題がテーマとして論じられた第6部を中心に取り上げることとしたい。

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 ここでまず、この国際カンファレンスにおいて学校文化とマイノリティのアイデンティティ形成との関連がひとつのセッションのテーマとされたことの意味は大きいと思われる。

 評者も学会員の1人である日本教育社会学会においては、これまで部落の教育問題をテーマに取り上げた研究は「地域社会と教育」の領域で論じられることが多く、あるいは個別テーマのなかに部落問題と関連した課題が含まれる場合には、その課題は個別テーマに応じて多様な領域に拡がって論じられてきた。

 何をマイノリティの教育問題と考えるかにもよるが、近年学会において「ジェンダーと教育」研究が1つの領域として成立して以後、マイノリティの教育課題が独自のテーマとされたことに、国際的な研究課題の所在を考えさせられた。

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 さて、第6部においては、まずオグブ氏によって、「非自発的マイノリティ」とその典型としてのアメリカ黒人の集団アイデンティティ形成過程が論じられている。

 とくにアメリカ黒人生徒の学校教育への適応類型として「適応主義者」「同化主義者」「アンビバレント派」「反抗者」「隔離された人々」の五類型が描き出され、最後に示唆として、支配集団である白人の文化との関係について「ここでのジレンマは、自らの文化的・言語的アイデンティティを失うことなく、支配集団の文化と言語を身につけることを通じて、いかに学業面で成功を収められるかということになる。/このジレンマから抜け出すひとつの道は、支配集団の文化と言語を、優れたものとしてではなく、異なるものとして扱うことである。

 支配集団の文化と言語を学ぶことは、あくまでも手段的に解釈されるべきであろう」(443頁)と論じられている。続く二人はオグブ氏の「非自発的マイノリティ」の概念と氏の提示する「文化モデル」に言及しつつ、池田氏は部落生徒の、志水氏はニューカマーの子どもたちの事例をもとにその適用可能性を検討し、おのおのに独自の理論構成を試みている。

 池田氏は「文化モデル」を「学校でのマイノリティの生徒たちの反抗的行動やかれらが形成する仲間文化を、地域文化や親文化の直接的反映ととらえる再生産論」(465頁)の図式でとらえているとし、部落の現状をとらえるために、これに代わるものとして、学校文化との出会いによって「学校を場として繰り広げられる出来事や関係から、マイノリティの教育達成や自己概念が生み出されてくると考える」(465―466頁)「再創造論」を提示している。

 また、志水氏はニューカマーを、オグブ氏の類型では「自発的マイノリティ」と「非自発的マイノリティ」の中間に位置づくと暫定的にとらえ、研究対象者である3つのグループ「日系南米人」「インドシナ難民」「韓国系ニューカマー」の「家族の物語」をこの順に「帰郷の物語」「安住の物語」「挑戦の物語」と読み取り、場としての学校においてニューカマーが「見えない」状況については、そこには「日本人化」と「日常化」によるニューカマーの「見えにくさ」と、教師がニューカマーの問題を「問題の「個人化」」によって「見ようとしない」実態があることを見出している。


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 以上の紹介からも理解されるように、一般理論や概念を志向・提示してきた海外の研究者の成果を「直輸入」して日本の実態を分析するのではなく、日本の現実や課題から概念を検討し理論を構築しようとするのが本書全体に通底する方向性である。

 これは、今回の国際カンファレンスそして本書刊行の意図の1つが「教育の実践面・政策面でも、教育社会学の研究面でも、その成果を日本から世界に向けて発信するということ」(5頁)であったこととも関連していよう。

 教育実践の今日的な課題である「学校文化とアイデンティティ形成」の検討に関して、さらに期待したいのは、こうした課題に対して、先立つセッションで論じられた現在の世界的な動向である新自由主義的な市場原理にもとづく教育改革がいかなる影響をもたらすのか、といった相互的な議論の展開と深化である。

 これはすぐに論じるのが困難な課題であり、また教育社会学研究者のみならず広く教育研究・実践に携わる多くの人たちによって検討されるべき課題でもあろう。

 したがって、世界にむけての発信と同時に、国内の他の分野の教育研究者そして教育実践に携わる人びとへと本書が発信されることにも大きな意味がある。

 本書は大部であるが、そこでは現在の教育改革や教師や学校文化について考える際の、教育社会学研究のもつ可能性と課題とが広くかつ深く論じられている。それだけに本書全体にわたって校正漏れと思われる誤記などがいくつかみられるのは残念な瑕瑾である。

 第6部に関しては、扉(409頁)に「非差別部落」との記載があり、近年角岡伸彦氏や野口道彦氏が意識的にこの表記を用いている場合があることも想起されたのだが、その意味ではないようである。また、「表6」(459頁)に関して、本文の言及では小学生の結果とあるが、表題には「(中学生)」とある、など。

 現代の緊要な教育の研究課題と実践課題に「自前の」理論と概念装置で取り組んできた研究者の研究成果とその記述を前に、論理の大胆な展開にも細かな表現にも気を抜くことができない。