本書は次のように2部9章から構成されている。
第1部 戦後地域社会と生涯学習
第1章 生涯学習と地域社会の創造
第2章 戦後生涯教育政策の形成と地域
第3章 生涯学習と地域社会
第4章 生涯学習の地域的展開―新潟県の一推進モデル地区を手がかりに―
第2部 地域教育力の再生と人権保障
第5章 地域社会における人権保障と社会教育施設―施設を支える論理の検証を中心に
第6章 地域社会と教育計画運動
第7章 地域社会における教育改革の方向性
第8章 中央教育審議会と地域教育改革
第9章 戦後社会教育論と人権―市民社会の視座から―
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本書の中で、とくに教育と人権の関わりを論じているのは5章と9章である。この2つの章が本書の内容を端的に表わしている。ここでは、海老原治善、宮坂広作、黒沢惟昭の諸論に拠りながら、地域社会における生涯学習をとおした新たな共同性の構築へむけた実践を構想しようとしていることがわかる。そこで、まず、生涯学習と人権の関係についての考察を取り上げてみよう。
まず、著者が批判するのが堀尾輝久が提唱しているような「国民の教育権論」である。そこでは、親の教育の私事性を基本にした「親義務の共同化」としての教育の「共同性」は、その基底に私人のエゴと対立を含むことになるという指摘(223頁)がなされる。
つまり、堀尾は「近代教育の原則」を、近代個別家族の中核であった「親子関係」に基礎をおき、その「私事性」の組織化を「公教育」と定義したが、これは「近代的人権の中核である市民的自由が親子関係という砦を使って国家の干渉を阻止したことであり、また同時に、子どもの権利を「人権中の人権」と位置づけることで親義務(教育・育児)への絶対化への可能性をひらいたことを意味する」(214頁)と批判されている。
著者は、こうした「国民の教育権論」では、今日の生涯学習社会の様態をうまく分析できないという。それは、ここでは学校教育以上に「私的個人の要求という形がより鮮明に現れやすい」(224頁)からである。
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また、社会教育終焉論を提起している松下圭一に対しては、「現存する市民社会の構成員が、「自由」「平等」「友愛」をすでに獲得しているなどと気らくな想像をすることすら許さないほどの、きびしい差別・抑圧の現実が日本社会にはある」と指摘し、そこではやはり、「形式的平等をつくり出しつつ、実質的不平等を拡大再生産してゆく資本主義社会のメカニズムを克服する主体の形成を、社会教育はその使命として担わざるをえないであろう」(224頁)と論じる。
そして、これまで社会教育の世界でさかんに提唱されてきた住民の学習要求(ニーズ)に基づく教育の組織化といった観点についても、「社会教育の職員、とくに専門職などと仮にも呼ばれるような公務員の職責は、住民のクレイム、ディマンド(いわゆるfelt needs)に対して疑問をさしはさみ、住民に再考を求めねばならないこともあろう」という宮坂広作の論点を援用し、障害者問題、部落問題、在日外国人問題、女性問題、アイヌ民族問題などの差別問題に対して圧倒的多くの日本人の無関心さが、これらの問題解決への展望を難しくしているとして、これらの学習は市場原理には任せられない(129頁)と論じる。
この点について評者も同感である。そして、ひとえに「学習要求」といっても誰の視点に立った「個人の要求」なのか(225頁)を問い返しつつ、「「自由」のスローガンのもとで人間を分断・差別している資本主義社会を、打ち崩していくことのできる新たな共同性の創造」(225頁)を訴えている。
評者は、第9章に引用されている今村仁司が指摘するように、社会関係の形成において秩序がつくられると同時に排除と差別が成立するという視点から、著者のいう「新たなる教育の共同性」においても差別や排除という問題はなお残ると思われるが、著者のこの視点は今後も検討される必要があろう。
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次に取り上げてみたいのは、本書全体を貫いている地域教育改革への著者の視点である。これまで国民の教育権論では、ともすれば、アプリオリに地域を善きものとして悪しき国家権力から守るという理論が前提とされていた。
しかし、著者は黒沢の論点を援用して、その不毛性を指摘する。(第7章)そして、「地域とは、実体概念ではなく、変革のための価値概念である」(182頁)という運動論の視点を示している。
例えば、臨時教育審議会第3次答申(1987年)以降、各地ですすめられつつある「生涯学習のまちづくり」についても観念的な批判にとどまることなく、そこに可能性を看取っていくという視点を提示する。
第4章では新潟県川西町という生涯学習推進モデル地区を取り上げている。一般に、こうした施策は「行政主導型・住民不在(ないし無視)の施策と批判され、他方では生涯学習推進と「まちづくり・むらおこし」政策とが容易に結びつけられているとの批判(教育・学習活動の政治への従属)が存在していることは周知のとおりである。(87頁)
しかし、著者はこうした批判にとどまることなく、「行政主導型」と批判されている「生涯学習推進体制」の中に、住民参加の可能性や地域課題解決のための糸口を探っていくことこそが、重要な問題として浮かび上がってくる」(88頁)という。
そして、「地域住民が、生活地域にどのような期待をかけているか、また行政がそれにどのように応えているのかという緊張関係の中で、「生涯学習」が位置づけられてこそ意味があるのではないだろうか」(98頁)と論じる。つまり、過疎対策というまちづくりに生涯学習の推進が利用されていたとしても、生涯学習のまちづくりの実際に踏み込んだ批判でなければ意味がないということである。
同様に、第8章では、1996年6月の中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」において「地域社会が単に人々の地縁的な結びつきによる活動だけでなく、同じ目的や趣味・関心によって結びついた人々の活動が活発に展開され、子どもたちをはぐくむ場となっていくことを強く期待するものである」と「第4の領域」の提示があげられている。
これは評者も文部省がアメリカ型の新たな地域社会像を提示してきたと注目してきたところである。著者は、これを「地域の教育力への注目、「地縁的」地域集団から新しい地域・教育関係の創造」ととらえ、「組合側が文部省批判として提起してきたものが答申に反映しているとみることもできよう」(192頁)と一定評価している。
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本書では全体として、文部省が推進している地方自治体における生涯学習振興施策を外在的に批判していくスタンスではなく、その実際をつぶさに見て評価できるものは評価していこうという姿勢を示している。
しかし、その場合でも現状追認に陥ることのない批判的視点は失ってはならないと思われる。とはいえ、本書は運動論の視点から、生涯学習と地域社会、そこで展開される生涯学習振興施策の中に人権の観点がどのように生かされていくかを見るうえで類書にないユニークな論点を提示しているといえよう。