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書 評
 
評者赤尾勝己
部落解放研究128号掲載

佐藤一子著

生涯学習と社会参加
―おとなが学ぶことの意味―

(東京大学出版会、1998年10月、46判、246頁、2,500円+税)

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 生涯学習の時代といわれる今日、生涯学習についての理論的・実証的研究の必要性が高まりを見せていることは周知の通りである。

 本書はそうした時代にあって1つの理論的切り口を示しているコンパクトな書物である。評者は本書の内容を簡潔に紹介し、そこに評者の立場からのコメントを行いたい。本書の章立ては次のとおりである。


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  まえがき

  序章 おとなが学ぶことと社会への参加

成人学習の国際的地平

「社会における学びから」から「社会を創る学び」へ

生涯学習政策と公共性の問題

おとなの学びと「開かれた大学」

地域にねざす学びの共同性

NPOが拓く学びのネットワーク

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 (1)では、筆者が1997年7月にドイツのハンブルク市で開催されたユネスコ主催第5回国際成人教育会議に参加した様子を中心に、その会議の有する歴史的意義について触れられている。

 (2)では、社会教育、生涯学習、成人教育という概念を吟味しながら、「社会における学び」から「社会を創る学び」への転換に即して、社会教育概念を再構成し、自発的な学びを発展させる組織的な教育活動を明らかにしうる社会教育学の体系を構築することが課題であると述べている。

 (3)では、1969年6月に発表された中央教育審議会の中間報告以降の生涯学習政策の変遷をあとづけながら、そこに見られる「公共性」のジレンマについて述べている。なかでも民間活力導入を積極的に推進した生涯学習振興整備法の問題点や、新たな「公共性」の再構築を行おうとしている1992年の生涯学習審議会答申の中にある矛盾点があげられている。「私事化」と「公共性」のジレンマをつうじて新しい公共性がいかに形成されうるのかという問題を投げかけている。

 (4)では、日本における大学拡張の歴史的展開を概観しながら、今日、高等教育機関が生涯学習機関化しつつあることを公開講座の普及状況をあとづけ検証し、岩手農民大学、都民カレッジ、早稲田大学オープンカレッジの実践を紹介するなかで、大学自体が地域社会とどう関わりあうかが問題であるとしている。

 (5)では、地域住民が国際的な視野をもって社会に参加し、住民の主体的参加のもとで自ら担う活動を担い、自治体と住民のパートナーシップのもとで地域づくりがなされていくことが課題であることを確認し、近未来を予見する自治体の生涯学習推進計画の事例として松本市と川崎市が紹介されている。

 (6)では、日本で一九九八年三月に制定された特定非営利活動促進法(NPO法)を受けて、社会参加活動、市民公益活動としてボランティア活動をとらえ、特定非営利組織(NPO)の可能性について述べられている。


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 ここで評者の観点から気のついた点を4つ指摘しておきたい。

 第1点は、社会教育、生涯学習、成人教育の概念についてそれらの連関の仕方に違和感が残ることである。例えば、「生涯学習には児童期の学校教育や日常的な偶発的学習も含まれ、また社会教育も生涯にわたる学習の1部分ということになるが、人びとの通念としては、生涯学習は学校修了後の成人の多様な学習機会・学習活動の総称という意味合いで理解され、マスメディアなどでも用いられているように思われる」(9〜10頁)と述べたり、「日本の社会教育法上の「社会教育」概念は、現代的に再定義された広義の「成人教育」概念にかぎりなく近く、……」(57頁)と述べているが、いかがなものであろうか。

 評者の理解では、生涯学習という概念の中に、学校教育における学び、社会教育における学び、その他の偶発的な学びが包括されており、成人教育は成人に開かれた教育を指し、それは学校教育であっても社会教育の形態をとってもかまわないということになる。

 日本の社会教育は青少年を対象とした教育も含まれていることは社会教育法第2条においても明記されているのである。なぜに筆者は社会教育を成人教育に近いものと見なすのか、理解に苦しむところである。


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 第2点は、社会教育について時代錯誤的な過剰な思い入れをしているということである。今日リアルに日本社会を見るならば、市民社会のレベルでは社会教育には筆者が述べているような期待などなされていない。

 地域にねざした学びの共同性、共同体における合意形成や共同事業は、官僚的な動員的推進によって「予定調和的に実現されうるものではない」「住民相互のなかには常に葛藤と協調の矛盾した関係が存在する」(160頁)という指摘はそのとおりである。

 しかし、そのあとに「地域社会の将来をどう発展させるべきかという問題をそれぞれの関心に即して学習し、認識することは、全住民の参加と合意形成の促進のために不可欠である」(160頁)と述べている。

 こうした事大主義的言説に違和感を覚えるのは評者だけにとどまらないだろう。今日の日本の社会教育の学びに全住民が参加することなどありえないと見るのが、アクチュアリティ(現実味)のあるとらえ方ではないだろうか。こうした言説の背景にはどこかノスタルジックな地域共同体が想定されているようである。すでに都市部ではこうした言説に説得力がないことは明白である。


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 第3点は、現代的課題のとらえ方である。筆者は「「現代的課題に関する学習」についても、国家・社会的見地から公共性を付与し、趣味・教養的な学習は私事的なものとして受益者負担にするという論理で公共性の判断が行政の論理によって主導され、狭くとらえられていくという問題点」を指摘し、「一面では公共性の観点から優先されるべき内容を提起しているが、反面では、「自由化」論以上に「学習の自由」を制約する恐れがある」(101〜102頁)という危険性を指摘している。

 評者はむしろ生涯学習審議会における現代的課題の提起に一定の評価をしたいと思う。現代的課題の提起が政策主導的であるからいけないというのは外在的な批判の仕方である。現代的課題としては、生命、健康、人権、家庭・家族、消費者問題、高齢化社会、国際理解、環境、資源・エネルギーなど議論の多い19の項目があげられている。

 これらのテーマについて、人びとによる真剣な学習が展開されるならば、社会をよりよく改革していくことにつながるものと考えられる。これらは国家のみならず私たちの生活においても追求されるべき課題である。そのうえで筆者が述べているように、「課題・内容の提示だけでなく、このような学習を推進する機関、方法、組織化の問題が大きい。……社会に開かれた大学の役割、身近な地域の問題にとりくんでいる無数の市民団体・グループの活動の学習場面への支援も含め、「現代的課題に関する学習機会の充実」にどうとりくむのか、よりいっそう具体的方策が求められている」(102〜103頁)という文章が生きてこよう。行政主導の現代的課題の提起では「真の公共性」は実現できないという発想には疑問を覚える。


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 第4点は、NPOについてのとらえ方である。筆者自身も触れているが、NPO法第2条に「不特定かつ多数の利益の増進に寄与」するという歯止めがあるものの、解釈する立場によるあいまいさが生じる余地を残している。(212頁)また、「政治上の主義を推進し、支持し、またはこれに反対することを主たる目的とするものではないこと」と限定されていることは重要である。(213頁)と述べている。

 しかし、NPOはそこで政治的活動がまったくできないというわけではない。NPO活動は、社会における政治的諸勢力がしのぎを削る葛藤の場となることを忘れてはならない。

 そうした観点から見ると、本書にはNPOがそうした政治的葛藤の場であるととらえる視点が薄いといわなければならない。やや楽観的な記述が気になる。

 いうまでもないが、すべてのNPOが社会の改革をめざす私たちにとってアプリオリに善なる組織であるわけはない。同様なことはNGO(非政府組織)についてもいえる。私も当初そうした非政府的組織について甘い期待をしていて、それが見事に裏切られた経験がある。

 勤務している大学の学生たちと1997年9月に現地のNGOを頼ってフィリピンに行った。私たちの当初の目的は日本のNGO(政府開発援助)がフィリピン社会においてどのような使われ方をされているかを民衆レベルの生活をつぶさに見ながら、観察することであった。だが、私たちを案内してくれたNGOはフィリピン政府寄りの組織であったため所期の目的は果たせなかった。このように非政府であろうと非営利であろうと政治的指向性の混在という事情は同じである。NPOについてより活動の内実に立ち入った入念な検討がなされる必要があろう。