驚くべき場面に遭遇したことがある。
私事であるが、評者自身子育ての最中であり、子どもを保育所に預けて仕事をしている。その保育所でのことである。付け加えると、そこは同和保育所ではなく一般の民間保育所である。それは4月最初の一歳児クラスの保護者会でのことであった。ある母親が泣きながら、「子育てで悩んだ時にだれも相談できる人がいない」と訴えたのである。彼女は行き詰まって、1歳の子に手を挙げてしまい、「子どもの虐待ホットライン」に電話をしたというのである。
さらに驚いたことには、「私もそこへ電話したことがある」といった親が、12人ほどのうちで3人もいた。どの親もまだ20歳代である。「離乳食の作り方がわからない」「子どもがなかなか寝ない」など、全て日常の、他者から見れば「些細」なことが原因である点で共通していた。きっとそれまでどこにも相談する場がなく、保育所ではじめて「いえる」場を得たのであろう。堰を切ったように彼女らが話し出す中、評者自身、そのような事実に愕然としたしだいである。
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地区、地区外を問わず、親は子どもを育てていくことにゆきずまり、悩んでいる。
そして子どもの現実はなお一層深刻である。過日も子どもが日の出、日の入りを見たことがない云々の調査結果が新聞報道されていた。自然離れ、ゲームづけといった子どもの現実は本書の刊行された1997年当時よりさらに深刻化している。
不況にも関わらず子どもの周りには、玩具やゲーム、果ては携帯電話、ウォークマンなど、沢山のものが溢れている。しかし、子どもの心は決して満たされてはいない。自分の存在に自信が持てず、行く道は見えず、追い立てられている。
本論文は、このような現状に対しての分析を試みつつ、解決の方向性を「地域」をキーワードにして、指し示そうとしている。その中で特に興味深いと感じた点を3点述べてみたい。
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まず1点めは、保護者や教育関係者の「協働のしくみ」を創り出すことを課題として提唱していることである。筆者はそれを指して「地域教育システム」と呼んでいる。
この「地域教育システム」は、実際には地域の実態を踏まえてさまざまな形態が考えられるであろうが、いずれの場合も大切なことは、学校、家庭、地域が、子どもを軸にして一体となって進めることである。そのような「協働」が「共感」を生み、広がりがさらにヒューマン・コミュニティの形成をも可能にすることを、筆者は述べているのである。
ただ誤解のないように述べておくが、「地域教育システム」は同和教育を否定しているところに成り立っているのではない。私たちが、そして先輩の諸教師が、積み上げてきた同和教育の実践を受け継ぐ中でこそ実現されるものである。反省すべき点があるとすれば、学校が問題を抱え込んでしまった点なのであろう。
学校だけで抱え込んできた課題に、地域、家庭、学校が一体となって動き出さねばならない。ただそれについても、現実的には、学校が抱えていた課題をそのまま地域、家庭にスライドさせるのであってはならない。それでは問題をキャッチボールしているだけになって解決どころか、現状よりさらに事態を困難なものにするだけであろう。
互いの壁を取り払って課題に取りくむことが必要なのである。そして、その際の学校の役割はやはり大きいものであることを強調しておきたい。
「開かれた学校」という言葉は一種流行語のように使われているが、本当の意味でのそのような一体化の内実がなければ、「開かれた学校」というようなことも実現しないのではないか。
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2点めは、困難な家庭・子どもへの支援を大きくクローズアップしている点である。実際に同和校をはじめとする現場の教師からすると、本論文を読んで必ず、具体的な子どもの名前、子どもの顔が脳裏をよぎるのではないだろうか。
本論文では、かつての子どもの学力の「全員低学力」から「ふたこぶラクダ」状態への変化を踏まえつつ、「地区内の生活・教育レベルの向上によって、かえって困難を抱えた家庭が地域教育組織から取り残される」という問題が生じてきたことを述べている。現場の問題意識からいってもこの点が特に深刻である。
かつては「教育困難」な家庭もある程度運動の枠内にあった。しかし今でいうと、運動へと結集していないか、もしくは村を出て住んでいることも多い。また、部落の子のみならず、周辺地域の「教育困難」家庭の親、子どものしんどさといったこともあり、もはや学校だけで抱え込める限界を越えている。
まさに地域の教育システム、「協働」の中でこそ解決の道筋の見えてくる問題であり、現にそのような展望を指し示すような実践も、各地より生まれてきているのではないか。
このあたりの課題については、本書の第2章、第3項で、高田一宏氏が「保護者組織の再編と親の教育参加」ということでも述べているので是非合わせて読んで欲しい。高田氏自身が、同和保育所に子どもを預ける親でもあることから、現在の課題を切実にまた忌憚なく述べていると、評者は感じたしだいである。
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3点めは子どもの「自己効力感」を育てることの必要性を述べている点である。
筆者は、子どもの生活がさまざまな要因によって分断され、味気ない魅力のないものになっている結果としての周囲への関心の低下、対人的感応・共感性の低下という現象を指して、「自己効力感」の低下というように呼んでいる。いわゆる「自尊感情」という言葉もよく用いられるが、評者は、双方の言葉は密接に絡んでいるように感じている。
「自己効力感」の高まりによって、子どもたちは行動を積み重ね、その結果が自信となり、「自尊感情」が育成されるのではないか。また、「自尊感情」が確かなものとなると「自己効力感」もまた高まっていくのではないか。そのような表現が当たっているかどうかわからないが、印象としてそのように考えるのである。
しかし、「自己効力感」の育成は、さほど簡単なことではない。筆者も述べる「自己効力感」の低下現象は、かなり深刻なものとなっているからである。「どうせやってもできへん」そんな言葉を身の回りの子どもが呟いていて、ぎくっとすることもよくある。自分の将来に夢を持つどころか、生きていく確信さえ持てない子どもの実態を目にするとき、何とかせねばと感じるのは評者だけではあるまい。
1996年に大阪府下で実施された学力生活総合実態調査の報告書に基づく分析の中で、高田一宏氏が述べた「自尊感情の危機」といった状況は、まさに大きな問題として立ちはだかっている。
この問題についてもやはりおとなの側が、それぞれの立場で孤立して問題を抱え込んだり、あるいは責任のなすり合いをしたりするのではなく、子どもの現実を中軸にすえて、筆者のいう「協働」といったスタンスで解決していくよりはないであろう。
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先に述べたさまざまな課題は、部落の子に顕著である。高校中退や大学進学率の問題との関わりでも、部落の子の「自己効力感」の育成の課題は重大である。しかし、決して部落の子のみの課題ではない。社会全体の子どもたちの実態を見た時に、警鐘が聞こえる思いであるし、警鐘を通り越して現実化したさまざまな悲痛な事件もある。
そのような時代にあって、あちこちで「教育改革」が叫ばれ、「中教審」、「教課審」をはじめとする答申ラッシュは、混沌とした中にも教育改革の大きなうねりの様相を呈している。そんな中、評者は「地域」を基盤にすることの中に大きな展望を見いだす。子どもは地域で生きていくのである。人と人との関わりの中で育つのである。
紙面の関係上、また、問題意識の分散を防ぐため、巻頭の論文のみについて述べたが、読まれる方は、是非各論も含めて本書を全て読むことをおすすめする。自らの地域と照らし合わせて読み進めるならば、さまざまな分野の提起から実践のヒントや展望がつかみ取れるであろう。