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書 評
 
評者ひろたまさき
部落解放研究141号掲載

野口道彦著

部落問題のパラダイム転換

(明石書店、2000年)

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 評者はこれまで、差別問題を差別者の側から考えてきた。差別の原因は差別者の側にあるとすることで、差別を生み出す差別者の社会や規範を問題にしてきたのであり、被差別者の存在そのものについては正面から検討したことはなかったといってもよい。被差別部落問題についても、従来の研究や資料や調査からそれなりの知見をもっていたとしても、そこから部落民を評者が「代弁」しうるとは、とうてい思えなかった。

しかし、部落の実態が変わってきたといわれるようになって久しい。解放運動の停滞は、社会の保守化に加えて、部落の実態が大きく変化してきたことにもよるといわれる。ではその変化とは何か、それが差別問題にどのような新しい視点を求めているのか、朝治武ほか編『脱常識の部落問題』(1998)をはじめさまざまな議論がなされているが、その変化の実態を掴みかねていた。本書がその実態を明示してくれるように思われたので早速読ませてもらった。


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 本書は3章から成る。第1章で、「部落民」概念の再構築を提言し、第2章でその提言の根拠として「部落の現実の変化」を提示し、第3章で「差別意識の変化と解放の戦略」を説くという構成になっている。

 第1章での提言は、部落民概念の拡大であり、「部落民とは、部落民とみなされ差別された人、あるいは差別される可能性を強く持っている人」と規定したいという。その理由は、部落の境界が曖昧になってきた現在においては、差別が恣意的に、根拠なしになされている現実のもとで、それらに対抗するための新しい主体の形成を期待するためにも、部落民概念の拡大が必要だというのである。これまで部落民を特徴づけてきた「身分と職業と地域とが、互いに分かつことができない一体のもの」とする井上清の三位一体論が実情にあわなくなってきて、部落を特定する境界線が曖昧になってきている。

つまり差別者は部落民を特定することが困難になっていて、その分、差別者は恣意的に「部落民」を特定してしまうことになり、「恣意性に差別の本質があるとみたほうがよい」とさえいうのである。「恣意性に差別の本質がある」ということは差別の源泉は部落自体にはないということになる。

著者は第3節で、「部落」の呼称が「新平民」の段階から「貧民部落」、そして「特殊部落」へと変化してきた近代の歴史をたどり、それは階層的把握から系譜的要素を重視する認識への変化であり、それが属人的・属地的な概念としての「部落民」概念である三位一体論を生み出すことになったのだが、現在は、三位一体論的現実が崩壊し、地域概念で捉えられなくなっているという。とすれば、現在の呼称はどうあるべきなのだろうか。「部落」という呼称そのものが無意味になっていることをいっているのである。


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 第2章での「現実の変化」の分析は、今や三位一体論的現実は解体しているということの論証に捧げられている。それは第1に、部落民の移動と混住による属人的属地的境界の曖昧化であり、第2に、部落民の階層的底上げによる職業的・階層的境界の曖昧化であり、第3に、それにもかかわらず被差別体験が減少していない、むしろ結婚に関しては増えているということである。

著者は、同和地区への転入・転出の統計や、同和地区人口の収入別・就労形態別あるいは住居形態別の統計を駆使して、部落の状況の大きな変化を立証する。例えば、1980年代以降、同和地区への転入者は従来の生活困窮者流入型から中間層転入型に転換したとか、同和関係世帯の平均年収が向上して中間層水準が増加したとか、住環境が周辺地区と同質化しているとか、そうした状況のもとで同和関係者と非同和関係者との差異よりも階層的な差異のほうが顕著になっているとかなどが指摘されるのである。

ことに、部落での高齢化と少子化の標準以上の進行に、著者は注目している。こうした統計による部落の変化は、もっと早くから分析されえたであろうにという思いはあるが、数字で示されることによってその変化は極めて説得的である。高く評価すべき本書の成果はこの第2章にあるといってよいだろう。


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 第3章は、アンケート調査に基づいた差別意識の分析と、部落解放の戦略の問題である。「無作為に選ばれた市民」を対象とするアンケートの結果を、差別に対する「八方美人型」「差別同調型」「反差別型」「アノミー型」に分類して、フォーマルな社会規範とインフォーマルな集団規範との関係を中心に、「差別の正当化のメカニズム」を丁寧に分析している。なかでも注目されるのは、「不平等の犠牲者の持つ欠点を見つけることによって、不平等を正当化する」いわゆる「犠牲者非難」型の言説の分析と、それが「今日的状況では増加する可能性が大きい」としている点である。

 以上の分析から、最後に「部落解放の戦略」が語られるわけであるが、著者は、戦略には運動の実践レベルと分析レベルとがあり、自分は「分析レベル」で問題を立てるとして、その戦略には「身元隠し戦略」と「誇りの戦略」とが対立的に存在するとする。部落の多様化が進行し、主観的な差別の現実認識も多様化してきた現在、「この二つの戦略をめぐる選択はしばらくの間は、問われ続けることになるだろう」。

私流にいえば、「同化」戦略と「異化」戦略とが、平行して進行する、そして部落に与えられた差別的な意味が希薄になったとき、その2つの戦略は1つになるとするのである。せっかく丁寧な分析をしながら、評者はそこから多くのことを教えられたのではあるが、それらの分析から引き出した結論としてはいかにも物足りない感を否めない。それより何より、著者が第1章で示した、「部落民概念の拡大」を図ることで、周辺部を巻き込んで差別と戦う能動的な主体の形成を期した意気込みがどこへいったのであろうか。


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 評者は何も勇ましい戦略を期待していっているのではない。ただ、あえて疑問を呈すれば第1章で「部落」の存在自体の解消さえ視野に入れていたのに、その後の分析は部落民の問題を部落民だけの問題としてみてきたのではないか、そのため現代の差別を生み出している根っ子のところへ迫る迫力がでてきていないのではないかという気がかりである。

そのために、現実の差別意識を分析しても、それらの意識が何に基づくのかという方向に分析が展開せずに、そういう差別意識の構造分析に終わってしまっているのではないかということである。ほかの差別現象や差別意識との関連で分析していけば、その背後に潜むものの存在が浮かび上がってきたのではないか、解放の戦略ももっと広い視野をもつことができたのではないか、少なくとも部落民以外の被差別者との連帯の問題を考えることができたのではないか、部落問題のパラダイム転換はそうした社会における差別現象全体との関係でこそ図られうるのではないか、と思うからである。その意味で、外国人労働者の存在を一方で語りながら、「部落の労働者が景気の調整弁として使われ、低賃金の沈め石の役割を担わされているという命題もリアリティを持たなくなった」と指摘しているところは、極めて印象的である。

 蛇足ながら、評者は「誇りの戦略」という言葉に違和感をもつ。「誇り」(「自慢に思うこと」広辞苑)という観念そのものが差別の論理を支えるのではなかろうか。何も誇れない者でもそれゆえに闘えるのでないか、自慢に思うことがなにひとつなくともアイデンティティをもつことができるのでないか、と思うからである。