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書 評
 
評者池田寛
部落解放研究131号掲載

宮島喬著

文化と不平等
―社会学的アプローチ

(有斐閣、1999年2月28日、A5判、294頁、3,700円+税)

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1 「読み」の深さから生まれた書物

 デュルケーム研究者として宮島喬の名を知ったのはずいぶん前のことである。日本の社会学者はウェーバーやデュルケームやジンメルやマンハイムなどの巨人の著作の厳格な読解によって思考スタイルを確立した人が多い。その読みの深さは、プラグマチックにこうした古典的社会学者の著作を利用している私などにとっては、脅威でもあり畏怖の対象でもあった。そのような社会学者の一人として私は著者を尊敬していた。

 もう10年も前のことになるが、宮島さんが大阪大学人間科学部の集中講義の講師として来阪された折りに、私の恩師の麻生誠先生が、「宮島氏と昼食をするから君も同席するように」と声をかけてくれた。

 東京の研究者をあまり知らなかった大阪の教え子に交流の機会をという麻生先生なりの心づかいがあったのだろう。その機会は、麻生先生が予想した通りに、あるいはそれ以上に、私にとって宮島喬という社会学者を意識させることになった。吹田の北千里の寿司屋での1時間ほどの交流であったが、宮島喬というデュルケーム研究者が部落問題をはじめとした不平等の問題に関心を示しただけでなく、その問題に鋭い洞察力をもっていることに私は少なからず驚きを感じたものだった。

 その後、宮島さんの動向に注目し、その著作の愛読者の1人としてかれの考察の深まりを心強く思ってきた。数年前にブルデューの理論を日本に適用した書物が数人の教育社会学者によって書かれたことがあり、その書物の書評を依頼されたことがあった。

 いま思い出してみても、10人近くの論文の中で、宮島さんのそれは群を抜いていたという印象が強く残っている。デュルケーム研究者としての「読みの深さ」はブルデューにも適用され、難解だといわれるブルデュー理論の理解者としても第一人者の位置にいることがうかがえた。

 本書はこのブルデューの理論に基づきつつ、文化による不平等の生成とその変革について論じたものである。本書のテーマを具体的に表現したのが、「使用する言語、学んだ専門分野、芸術的趣味、好むスポーツ、衣、食、住のライフスタイル等々によって人々は互いに区別される。だが、その差異が単なる多元的な差異として扱われず、しばしば上下のハイアラーキーへと読み替えられ、人々の地位の社会的分化に主要にまたは媒介的にかかわるようになるのはなぜか」という「はじめに」に示されている文章である。


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2 本書の構成

 本書は、序論、1章〜10章、展望の12の部分から構成されているが、内容的には序章から2章まで、3章から5章まで、6章から9章まで、そして10章と展望の大きく4つの部分に分けられる。

 序章「文化における現代」と1章「文化と不平等」はブルデュー理論の紹介にあたる部分で、文化という資源の人びとの間への不均等な配分がどのようにして起こるか、また、正統的な文化基準はどのように構成されるのかということが取り上げられている。2章「芸術の享受と社会的不平等」も芸術的趣味として表現される芸術資本についてのブルデューの所説を紹介したものである。

 3章「社会変動と教育拡大」、4章「同質化、差異、不平等」「付論 文化、教育への社会学的研究の課題に寄せて」は、日本の教育システムの特質と教育を通じてつくりだされる不平等を論じたものである。五章「家族、ハビトゥス、実践」は、家族の機能が低下してきたといわれる現代において、なお家族が社会参加能力や教育達成を生み出す重要な単位であることを考察したもので、とりわけマイノリティにとって〈資源としての家族〉のもつ意味は大きいことを指摘している。移民においてはその家族が「反家族」、すなわち負の資源をもつ存在として、子どもの学校適応や教育達成を困難にしているという指摘は、六章以下の移民とその文化適応について述べた部分につながるものである。

 6章「日本におけるマイノリティの文化的諸条件」、7章「移動・移民と文化変容」、8章「移民労働者第二世代における剥奪と戦略」、9章「文化の共存と文化の序列化」の各章は、言語に焦点をあてながら移民問題を論じた部分である。日本でもアジアや南アメリカからのニューカマーといわれる移民が増加しているが、かれらの文化適応の問題は社会全体で認識されているとはいいがたい。

 ニューカマーの子どもが学校に入・就学する事例も多くなっているが、かれらに対してせいぜい日本語教育のための時間が設けられたり臨時講師が採用されているぐらいで、それすら行われていない学校もある。いわば日本あるいは日本の学校では移民問題は日本文化への同化の問題として受け止められており、言語をはじめとしたかれらの独自の文化が、アイデンティティ形成やホスト国への適応じたいにも大きな影響を与えるものであるという観点はほとんど省みられない。「社会生活言語」(「文脈依存言語」))と「学習思考言語」(「文脈縮減言語」)について述べた第六章は、とくに外国人の子弟を抱える学校の教師は是非一読すべきであろう。

 10章と展望は、序章と1章で取り上げた問題を、近代・現代社会における文化による差異化と序列化、とくに「能力」概念の構成を通じた差異化と序列化という点に的を絞って論じた箇所である。「文化資本」というブルデュー理論のキー概念について、「これは、それぞれの社会的環境のなかで習得される文化が、種々の変換過程を経ながらも、学校教育、職業生活等において能力や適性の基礎となること、その際、特に学校が、質的に多様な文化を、有効性の大小としてみられる“資本”へと変換し機能させる有力な装置となっていること、を含意している」と述べ、「だからブルデューらは、学校前的および学校外的な社会化が不均質で、社会的に差異づけられたものであることに当の学校がまったく無自覚で、あたかも“能力”の獲得に社会的な条件の差などないかのごとく子どもたちを扱うことを、最たる学校的不平等として問題にするのである」(256頁)という記述は、移民問題と教育について書かれたいくつかの章を思い返すと強く心に残る。


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3 部落問題・解放教育への示唆

 本書で部落問題・解放教育について触れた箇所はごくわずかである。しかし私は、部落問題の外にいる人が、部落問題に関連したテーマを部落問題を直接扱うことなくこれほど鋭く深く考察していることを心強く思う。部落問題の研究は、同和地区固有の問題から出発したが、それは同和地区に限定された問題の解決をめざしていたのではなく、日本社会にある社会的不平等の解決をめざすものであった。それが関係者以外の人に理解されるようになるためには、部落問題・解放教育研究のアプローチが普遍性をもつものであるということが示されなければならないが、「外部」からの照射・描写によって、そのことはより鮮明に映し出されるのではないかという思いを私は持ち続けてきた。宮島氏のこの書は私がまさに期待し続けてきたものである。

 このような意味から、本書のさまざまな箇所に部落問題・解放教育にとって示唆的と思われる記述がある。たとえば、家庭において形成されるハビトゥスは、マイノリティや移民の教育達成にとって不利に働くことが多いが、しかしそれは必ずしも固定的なものではなく、「ハビトゥスの変換」といったプロセスも実際に起こることを指摘した箇所がある。

宮島さんは、「ユダヤ系の場合、勤勉、自省、学びのハビトゥスが、その息子や娘たちに強力に伝達され、就学行為へと現実化され、親にはなかった学歴資本へと変換されていくのがよくみられた。この場合、子どもが親から受け継ぐのは、それ自体として資本的価値をもつ言語能力や知識や教養ではない。(略)

 しかし、その親から子どもへと受け渡されるハビトゥスが、学ぶという継続的な実践をうながし、やがては正統的な言語、知識、教養の獲得を可能にしていくのである」(176頁)と指摘し、「この一連のプロセスは、基本的には、現状への否定的認識をある未来への肯定的認識に変換していく行為者内的な営みがなされているということを想定することで、理解可能となるのではなかろうか」(177頁)と述べている。階層固定的な再生産論の趣の強いブルデューの理論を、社会変革の方向へ、主体による社会的構築の方向へと修正を図ろうとする宮島さんの姿勢がこうした記述に示されている。


----------------------------------------------------------------------------- しかし、最後に次のことも付け加えておくべきだろう。

 部落問題や解放教育に関心をもつものは現実を変えるとか社会変革に眼をむけがちで、そういう志向性がない研究は物足りないと感じてしまう。運動や現場と関わり合う者として、そういう評価は当然なのだが、しかし、現実分析の深さを欠いた処方箋や方針は禍根を残すことになる可能性が高いものである。そういう意味では、しっかり現実を見すえ、現実の複雑な様相を繊細な感覚で腑分けし、どこに病巣が潜んでいるのかを突き詰めていくという冷静で客観的な姿勢が必要なのである。

 本書の各章を読めば、宮島氏の社会学者としての確かで冷静な眼が教育問題や移民労働者の問題にむけられていることがすぐにわかる。その考察の深さと鋭さは、本書で示されているかれの考察を批判し反論しようとしても、なかなかそれが成り立ちにくいということによっても明らかである。

 私は本を読むとき、あえて著者の立論に内心で異議を唱え、いくつもの疑問符をページの上下の余白に書き込むという作業をすることがある。そうすることによって著者とは異なる立論が可能なのではないかという可能性をさぐるのである。宮島さんの本書についても私の懐疑的な習癖はいつものように沸き上がってきた。

 かれが示している個々の考察について、はたしてそういえるだろうかという疑問をあえて投げかけてみた。しかし、ほとんどの場合宮島さんの示した見解や考察に反するものは見いだし得ないという結論に至った。それだけ宮島さんの一つひとつの文章は鍛え抜かれた思考のもとに考え抜かれたものであるということなのだろう。