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評者生瀬克己
部落解放研究127号掲載

障害者の人権白書づくり実行委員会編

障害者の人権白書

(障害者の人権白書づくり実行委員会、1998年8月6日、A4判180頁)

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はじめに

 ノーマライゼーションという言葉が人びとに定着しはじめたのは、1981年の国際障害者年以後のことではなかっただろうか。スウェーデンの事情にくわしい二文字理明氏はスウェーデン社会庁のパンフレット(1)を翻訳・紹介するなかで、日常生活の面での非人間的な扱いを受けている障害者の実情を改善するのがノーマライゼーションの原点であるとしたうえで、このノーマライゼーションの概念が〈行政の基本概念〉に成長したとしている。そうした理解の上に立って、バリア・フリーの建物や交通が広がり、日常生活の諸事を自らの意思で決定していく自己決定の理念を耳にする機会も増えたとしている。

 二文字氏の現実認識はそれなりに正しい。都心部ならば、車いすでそれなりに動けるし、東京に「権利擁護センター」(通称 東京・すてっぷ)ができ、大阪に「大阪後見支援センター」(通称あいあいねっと)ができたことは、そうした前進の印である。だが、そうした前進の証拠は、本稿で紹介する『障害者の人権白書』が語る障害者の実情とは、あまりにもかけはなれている。

 白書が明らかにしている事実は、あまりにもきびしく、ときに過酷でさえある。その〈前進〉〈進歩〉はあまりにも小さいのだろうか。他方、若い障害者たちの間には、これまでには見られなかったような傾向も現れはじめているという気もする。

 どうやら、かつてそうであったように、〈障害者〉と一括りにして見てはいけないのだろう。〈障害〉の種類や程度によって、それぞれの障害者の状況はかなり異なる。さらには、個々の障害者が獲得しえた〈環境的諸条件〉のレベルのいかんによっても、彼ら・彼女らのその後は大きく違ってくるに違いない。

 このようなことを念頭におきつつ、この白書を読むことになった。


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1 『障害者の人権白書』が提示している現実

 大阪の19の障害者福祉団体が協力しあって、実行委員会を結成して、身体障害者・知的障害者・精神障害者のそれぞれを含めた1550人に対してなされたアンケート調査結果を分析・考察したのがこの白書である。実行委員会の委員長をつとめた樋口四郎氏が「現在の大阪の障害者が受けたことのある人権侵害の実態をまず調べ、それをとりまとめる」ために大阪府下の障害者福祉団体に呼びかけて実行委員会を組織したと語っているところからも、その意図は明白である。

 障害者の日々の暮らしに目をむけてみると、電車の駅へ行けば、「保護者はいないのか」「電車に一人で乗るな」などと言われ、焼肉屋に行けば「危ないから」という理由で入店を拒否される。車いすをはじめとする福祉機器の補修点検施設が町中にないから、車いすがパンクしたときなどは、自転車屋に飛び込まざるを得ない。だが、自転車屋はパンクの修理を引き受けてはくれない。まだある。知的障害者が青少年ホームの陶芸教室に参加できなかったり、脊椎損傷を負っている人が団体旅行を一方的にキャンセルされたり、障害者の市民生活は困難をきわめる。

 この白書は「介護」「住宅」「交通・外出」「仕事」「お金の問題」「市役所・郵便局・銀行等の利用」「飲食店・売店・銭湯等の利用」「結婚・家族・冠婚葬祭」「出産・子育て」「近所付き合い・人間関係」「性的虐待」「教育・保育」「入所施設・通所施設」「病院・地域医療」「精神障害者の問題」といった具合に分類、整理されている。そして、そのどの箇所にも障害者たちの上記のような〈無念の思い〉がいっぱいにつまっている。

 現代の理論は、ノーマライゼーションの考え方を当然のこととし、障害者が「自分らしく主体的に生きる力を高める」ための支援技術をエンパワメントと呼び、その必要性を強調している。しかし、この白書の現実は、そうした理論的世界とはあたかも無縁のようにも見えてしまう。

 さらには、全体の70%の回答者が「障害者に対する差別はある」と答えていながら、「差別を常に感じている人」はそれほど多くはないといった〈奇妙な事実〉に出会ったりもする。このような事実の背後に、北野誠一氏が「一般的な意味での〈市民的生活体験〉そのものが少ないからではないか」と解説するような背景があるとすれば、事態はより以上に深刻であるということになる。

 どうも、ノーマライゼーションは表層部分でしか実現していないのではないだろうか。次のような事例もある。調査時に42歳であった身体障害者の女性は、1983年における自分の体験をつぎのように語っている。この女性は妊娠3か月で産科の個人病院をたずねる。医師は「障害を持っていて動くから診察するとき怖い。責任を持てない。診察方法が分からない」と診察を断ったというのである。専門医が患者を前にして「診察方法が分からない」とは何事かと言いたいところではあるが、現実はもっと深刻である。

 同じ身体障害者の松兼功氏は医師たちの実情を「医師や看護婦さんの側は、一つの分野の医学的な知識はあっても、障害者に関する情報や実際に接した経験がないと、診察をためらったり、誤診を招いてしまうことも少なくない。第一、地域にある個人経営の医院、病院の多くは車椅子用トイレはもちろん、出入口にスロープさえ設置されていない」と語っている(2)。障害者は診察拒否どころか、誤診の危機にさえさらされていることになる。それほどに、わが国の医学教育は〈障害者の存在〉を無視・放置してきたことになる。この女性の経験からずいぶんと時が過ぎているが、今もって、事態が抜本的に改善されたというニュースは聞けない。


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2 障害者観をめぐって

 この白書は〈障害者の苦悩〉に満ち満ちているが、そうではない道を切り開きえた障害者もいる。生きる喜びや確かさの獲得という意味では、障害のある人もない人も変わりのあるはずはない。とりあえずは、誰かの心身に障害があるからといって、その彼・彼女らは〈何もできない〉わけではないし、〈何もしたくない〉と思っているわけでもない。世間の人たちからすれば、そんな基本的なことも、十分には理解できないのかもしれないとさえ思える。

 筆者の職場では「インドネシア・ワークキャンプ」を実施している。現地で井戸を掘るのをはじめとして、数々の交歓・交流を重ねる。このキャンプに参加した山本明氏は、その体験を「インドネシアでは、肉体労働は身分の低い人びとの仕事とされています。その肉体労働を日本の大学生がわざわざ来て、炎天下汗を流しているということで肉体労働の重要性を伝えると共に、現地の人びとも作業の輪に加わります。(中略)私たちがわざわざインドネシアまで行き手作業をして、皆の心を一つにするのがワークキャンプなのです。私はこの考えの素晴らしさに強く胸を打たれる思いでした」とつづっている(3)。

 この著者は〈可視の世界〉を大きく制限されている。しかし、彼はそのような身体の障害状況にかかわりなく、〈肉体労働の讃歌〉を歌いあげている。障害者から〈肉体労働の歓び〉を奪っているのは〈心身の障害〉ではないことがわかろう。そういえば、数年前の雑誌『現代思想』に、生来のろう者のことが特集されていた。彼・彼女らが使用している手話を〈日本語手話〉と呼ぶべき体系的言語であるとし、それらを駆使して〈独自の世界〉を成立させていた。彼・彼女らの世界を取材したテレビのドキュメンタリーでは、モバイルを片手に軽やかに生きている世界がそこにはあった。

 もう一つ、現代の大学生の手記を紹介しておきたい(4)。彼は下肢・上肢を不十分にしか与えられていない。その彼が「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」と喝破している。彼は浪人時代の予備校探しに苦労したが、そのほかのことは〈ふつう〉に体験し、成長したらしい。事実、彼の口から〈被差別体験〉が語られることはほとんどない。かわって、正課の水泳に彼を参加させるために、懸命に工夫を続ける教師や級友の姿や、バスケット部の活動に加わり対外試合に出場するなどのエピソードが、彼の周りの人びとの支援ぶりの豊かさ・確かさとともに語られている。時あたかも〈学級崩壊〉が叫ばれる時代に、こんな確かな学校があるのだから、なんとも頼もしい。それだからこそ、彼が語ってみせた学校や地域の情景は多くの読者の関心を呼んだのだろう。


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3 おわりに

 この白書が明らかにした障害者の世界と、自らの〈アイデンティティ〉の獲得に成功しつつある障害者たちとの間には、あまりにも大きな〈違い〉がある。この〈違い〉の解明もまた重要な課題である。さらに、白書がしめした〈人権侵害〉状況も解消されなければならない。表層部分でのノーマライゼーションの展開・進行のなかで、現実はこのような二重の課題をかかえこんでしまっているのかもしれない。


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二文字理明訳『人間としての尊厳』(ノーマライゼーションブックレット)障害者人権文化室〈Nプランニング〉1998年

松兼功「厚生省はわかっているだろうか 車いすの残酷入院物語」(『別冊・宝島M厚生省更生せず』所収)1996年

山本明「〈チーム・ジャランジャラン〉と私」(『アジアの人々の協働から学ぶ——桃山学院大学 インドネシア・ワークキャンプの歩み』)聖公会出版、1997年

乙武洋匡『五体不満足』講談社、1998年