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本書の書評依頼を気楽に引き受けたものの、後になって次の2つのことに悩んだ。第1には、本書には学術書の書評のようなスタイルの文体がなじまないが、なかなかそれを崩すことは今の自分にはむずかしいということ。第2は、私には日本の「不登校」の子どもたちについては若干の議論はできるだろうが誠にお恥ずかしいことながら、アメリカにおける人種隔離の問題にもマイノリティの子どもの問題にも、まとまった知識をもち合わせていないこと、この2つである。今さらながら、日頃の自分の不勉強を恥じるのみである。
しかし、実際に読み始めてみると、著者と子ども・おとなたちの対話に引きずりこまれるような魅力を感じたとともに、自分自身がゆさぶられる表現に数多く出会った。以後、率直に本書を読み進めていくなかで感じたことを、若干の脱線を含みながら述べていきたい。
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さて、本書は、『非識字社会アメリカ』(脇浜義明訳、明石書店)などで知られるジョナサン・コゾルの最新作(ただし、原著がアメリカで刊行されたのは今から4年ほど前)である。著者は約30年近くにわたって教育活動や社会活動に従事するかたわら、人種隔離された小学校にかつて勤務した経験をふまえて被差別階層の子どもたちと関わり続けている。
本書もニューヨーク・南ブロンクスに何度も訪問するなかで出会った被差別階層の子どもやおとなたちとの対話の描写を中心に、そこから南ブロンクスという地区(「ゲットー」と文中では表現)の抱える諸問題を描き出そうと試みている。
ところで、各章のタイトルを参考までに掲げておくと、次のとおりである。
読者に
第1章 南ブロンクス、夏
第2章 閉ざされた生活
第3章 絶望の中のクリスマス
第4章 だれが子どもを殺すのか
第5章 ゲットーの学校、ゲットーの病院
第6章 イエスは泣かれた—アメイジング グレイス
エピローグ(ちなみに、AMAZING GRACEは本書の原題である)
以後、本書から紹介したいことは山ほどあるのだが、紙面の都合もあり、とくに評者の印象に残った部分だけを取り上げていきたい。
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各章の随所に描かれていることは、麻薬とエイズ、殺人に売春といったことだけでなく、劣悪な住環境とそれを「隠蔽」するかのような市当局の諸施策、そして、市当局の予算削減に伴う行政サービスの極端な悪化(住民の切り捨てに等しい)の実態である。
例えば、休憩時間の銃声で父親が撃たれたことを知る子ども、エイズで瀕死の状態にある母親に日々接している子ども、麻薬売買の行われている公園のそばで遊んでいる子どもなど、著者のいう南ブロンクスの現実が子どもの姿を通してあらわれる。著者は、子どもたちがこのような環境で過ごすということは、精神的外傷(トラウマ)の「原因となる悲劇があまりにも日常的である」(180頁)ということだという。
あるいは、著者は、市の財政削減で建物の点検担当の行政職員が削減され、危険な地区を避けてもいいという労働規約をたてに壊れたエレベーターを点検しなかったことが、ある黒人少年の死を招いたのではないかという一女性の話を紹介している(157頁)。
この女性は「新聞が市の予算削減を書くとき、焼死した子どもや事故死した子どもの写真もいっしょに載せればいい」、「子どもを殺すのは麻薬売人だけではない」(158頁)などと述べている。先のトラウマのことも含めて、著者は人びとの言葉をふまえる形で、自分の思いをそこに表現しているように思う。
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一方、教育の方はどうか。著者は、正規の免許状をもたない臨時教員が多数をしめる学校の存在、生活環境の悪さが原因で心身の病をかかえている子どもたちの多さ、ある年度の中学3年生の87%が六年後までに「放校」処分を受けていた学校もあるという実態、学校の建物自体が塗料による鉛汚染で問題を抱えていることなどを指摘している。
著者は学校の劣悪な教育環境を、とくに鉛汚染に伴う脳損傷の危険性を指摘した文章のなかで、「社会的に作り出された知能破壊」と述べるだけでなく、「中等教育へのアクセスの不平等を指摘しても社会環境に起因する神経症という観点から不平等を議論することはあまりない」「脳損傷よりも差別的入試を語る方が緊張が少ない。(中略)しかし、破壊された幼児期は取り返しがつかない」(222頁)という。
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さらに、例えば著者は刑務所で出生し、街に来て麻薬を覚え罪を犯して再び刑務所へ帰って行く人の存在を書く。だが、それでも刑務所のほうがまだ「外の世界よりも恵まれた扱いがあると言えないこともない」(209頁)という。「囚人島とゲットーは人種構成がまったく同じ」というある牧師の発言(210頁)に触れると、この閉ざされた生活を乗り越えていくために何が可能なのか、課題の大きさに途方に暮れてしまうとともに、文中では脇役的に描かれているが、それでも現場に踏みとどまっている多くの活動家たちの力強さに圧倒されてしまう。
そして、著者は公民権運動の過ぎ去った今日、ある知人の黒人の「30年前にどんな橋の上で何をやったかは関係ないでしょう。いま現在どの橋の上で何をやっているのかが問題で、それが知りたいのです」(213頁)という言葉を引用する。著者は知人の言葉を引きながら、アメリカにおける反差別運動の現在をも問いたかったのではないか。
このような著者の言葉の一つ一つが、今まで何か分かったような顔をしてきた自分にすべて鋭く突き刺さる。私たちが日本で子どもについて論じている言葉は、はたして本書と同じように、著者に届くだけの力をもっているのだろうか。著者の言葉に触れるたびに、「お前はそこで何をしているのか」ということを問われているように感じた。本書は厳しい現実に直面しても筆が荒れることのない、静かな怒りと悲しみに満ちた文体で貫かれているが、そのことが余計にわが身に厳しい何かを突きつけている。差別の現実を語る言葉の重さ、リアリティということを考えさせられる本である。
また、冒頭の「読者に」において、著者は政策次第で逆行することになる外形の進歩に期待を置かず、このような環境のなかでも祈りや希望をもって生きようとしている子どもたち、女性たちに希望を見い出そうとしている。
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「訳者あとがき」によると、前著『非識字社会アメリカ』と比較して、政策については激しい怒りよりも「絶望」的な面が出ていること、子どもや女性に変革のエネルギーよりも慰みを見い出している面があるという。
訳者のいうことが本当かどうかは今すぐ言えないが、とりあえず本書を貫く主題は、〈劣悪な、閉ざされた生活環境のなかで暮らす被差別階層の人びとに、私たちはどのようにして「希望」や「解放」を語り得るのか〉ということであろう。しかし、私たちはどんな言葉でそれを語ればいいのだろうか。この本を読みながら、私はずっとそのことばかりを考えていた。
書評依頼を受けながら、私は途中からただこの本の突きつける課題の重さにたじろいでいただけである。このような書評で著者および訳者の思いに十分こたえられたかどうか、はなはだ心もとない。誤解や理解のおよばない点は、両者におわびするしかない。