戦前の柳田国男や喜田貞吉に始まった三昧聖の研究は、戦後に堀一郎などに受け継がれたものが一九七〇年代に『道頓堀非人関係文書』などの出現で、ようやく地域史研究のテーマとして目を向けられ、それがさらに九〇年代には多様な被差別民にかかわる社会文化として、その存在形態などについて研究が深められた。このような三昧聖研究の今日的な到達点とその課題を示したのが本研究であろう。まず本書の構成は次の通りである。
序論・三昧聖研究の成果と課題 細川涼一
第一部 畿内における国別研究
一 南山城の三昧聖 田中淳一郎
二 上品蓮台寺と墓所聖 山本尚友
三 中世〜近世の三昧聖の組織と村落―大和国の場合― 吉井敏幸
四 近世大和の三昧聖―一国仲間組織をめぐって― 吉田栄次郎
五 摂州三昧聖の研究―特に千日墓所三昧を中心として― 上別府茂
六 近世大坂における三昧聖の存在形態 木下光生
七 近世河内における三昧聖の存在形態 吉井克信
八 阿弥陀廃寺にみる三埋聖の活動 河内一浩
九 近世の聖=おんぼう身分と村落―紀の川筋・泉南地域を対象に 藤本清二郎
十 田辺地域における「鉢坊」(おんぼう)の存在形態 藤井寿一
十一 近江の三昧聖・煙亡について 藤田励夫
十二 近世口丹波地方における隠墓の存在形態 木下光生
十三 隠坊から茶筅へ―近世における空也系三昧聖― 菅根幸裕
第二部 有力寺院と宗教活動
十四 元禄の東大寺大仏再興と綱吉政権 杣田善雄
十五 高野山三昧聖の研究 日野西真定
十六 東寺地蔵堂三昧について 原宏一
十七 近世京都における無縁寺院―白蓮寺をめぐって― 村上紀夫
十八 三昧聖研究文献目録(二〇〇一年一月)吉井克信
本書の全体像については、序論で細川氏により三昧聖の研究史と各論者の研究上の特徴についてコメントされている。まず三昧聖(隠亡)の研究は喜田貞吉による被差別部落史の立場から始まったものが、柳田・堀らの民俗学的立場からの研究で、被差別部落史の補完としての段階から三昧聖独自の存在形態が追及され、そこで指摘された行基系の東大寺竜松院との関係を五畿内を中心に立証することが本書の一課題とされている。
いま一つは葬送儀礼を職掌とする賤民身分としての三昧聖の成立について、被差別民としての三昧聖の初見史料として若狭国小浜の「明通寺文書」(貞治四年・一三六五)に三昧聖が非人施行の対象になっていたことが挙げられている。
しかしその具体的な職掌がこの段階では史料的に窺えないとし、それに対して戦国期の和泉国信太の三昧聖や安松の三昧聖が、荘園領主との対立関係のなかにあった守護方に捕らえられた農民や三昧聖を身受した際の相論『政基公旅引付』(文亀元年・一五〇一)や、摂津国尼崎の律宗寺院大覚寺の『文書』(天文元年・一五三二)に墓所の石塔・塔婆の管理や火葬・土葬に従う三昧聖の存在が見られたことから、一六世紀初頭に畿内で後に行基系三昧聖を名乗る聖集団が組織されたとされている。そして「近世、行基による墓地開創伝承を伝えたことから、行基系三昧聖の成立を行基の同時代にまでさかのぼらせる堀一郎や上別府茂氏の見解もあるが、これは伝承と史実を混同したためで、三昧聖の初見史料に照らし合わせる限り成り立たない」と三昧聖の行基同時代説を批判されていた。
しかし行基墓地開創伝承は近世に始まるのではなく、すでに八尾常光寺縁起(応永六年・一三九九)でも見られるように中世以来のものであることから、単なる伝承として見過ごすことはできないのではなかろうか。(拙著『河内―社会・文化・医療』和泉書院刊参照)
さて第一部の畿内国別研究での田中論文は、南山城地域の特徴として惣墓が少なく村ごとに墓所を持つため、逆に村単位で三昧聖を抱えるには負担となり聖側にとっては葬送機会に欠けるため「数カ村に一人もしくは数人の三昧聖が散在」する状況にあったという。そこから村側で三昧聖を抱えるときは年季を限り、自村の村抱え身分にしたものが冒頭の「一札」(天明五年)ではなかろうか。
従ってこの「一札」から身分関係が契約関係に変化したかどうかは論ずることはできず、三昧聖の仕事振りが村方の意に添わない場合は、何時なりとも暇を出されても異存ないとの誓約であって、対等な契約ではない事に注意する必要があるのではないか。なお田中論文の三四頁の三昧聖が「各村ごとに一軒ないし数軒と存在しており、葬送のみでは…」の表記は三一頁の先に引用した文言から見て不整合な表記ではないか。
山本論文は京都の農村部にたいして都市の事例として、蓮台寺の葬送の場としての記録を平安期から近世にわたって論証されたもので、転切支丹類族の非人を妻としていた蓮台寺墓所聖又兵衛が、墓寺としての蓮台寺十二坊の支配下にあった千本火葬場や大徳寺火屋で火葬を担当していた実態を解明されていた。大坂でもそうであるが、都市の三昧聖は葬送を営む寺院の管理下にあったことでも農村での村抱え身分とは様相を異にしていたことが窺える。
なお京都の三昧聖の成立について山本氏は、応永五年(一三九八)の東寺観智院賢宝の葬儀で火葬に携わった善阿弥の事例や大永五年(一五二五)の『湟槃堂式目』に「千本蓮台野聖方江参百文相定也」などから室町時代とされている。
大和国について吉井氏は中世末に非人宿が解体するなかで、葬送に従事していた非人法師から三昧聖が成立したとされる。三昧聖は墓地の周辺に定住するなかで墓地にあった浄土宗の墓寺とは別に庵室と呼ばれた聖寺をもつようになり、さらに太閤検地頃までに墓地周辺に農地を持った独自の「おんぼう垣内」=聖村を形成した式下郡平田村のような所もあった。これが近世になると中世来の縁起伝承を根拠に旦那場権や墓地・屋敷地の除地を得るようになり、さらに元禄年間、東大寺大仏再興の過程で中世末以来強固に組織されてきた三昧聖集団は竜松院の公慶上人の勧進活動に協力した。これを機に大和一円の三昧聖八十八ケ村は村方と相論が生じた場合、行基信仰を由緒とする東大寺竜松院を権威として対応するようになったと述べられている。吉井氏の論は三昧聖をその形成から衰退に至る過程を通観した研究として、今後の研究の土台になるものといえよう。
これに対して吉田氏は大和の三昧聖仲間が一七世紀の中期までに行基伝承を軸に結集するも、大仏開眼供養を起点とする竜松院を頂点とする三昧聖組織の成立は、一八世紀を通して三昧聖の権益を擁護する役割を果した実態に欠けるところから、竜松院との関係は儀礼として積極的に参加しただけとし、ようやく竜松院との間で本格的な関係をもつたのが弘化四年の行基千百年祭後からのことと在地文書から論証して吉井説に疑問を呈しておられ、これは今後の三昧聖研究の重要な論点となろう。なお吉田論文で紹介された三昧聖と地域村方の争論に対する「国中八十八ケ聖惣代」の関与を見たとき、一九世紀までの事例では聖個人の私的利害をめぐる所から当事者間の解決に任せ、高市郡見瀬村の墓郷離脱など聖職の生業そのものにかかわる共通な事件には関与するという聖職仲間の慣習が背景にあったのではではなかろうか。
摂津国大坂の千日墓地を中心とした上別府氏の研究は、都市墓地としての普遍性と特殊性を追求されたものである。元和初年に大坂では寺院と墓地の統廃合と移転がなされた。そのなかで千日・葮原・梅田・鳶田・浜・小橋の六ケ所の墓所聖が天明七年(一七八七)に、奉行所からの尋ねに対して本山もなく竜松院末でもないと返答した。例えば千日墓所内の六坊の場合、世間では千日山安楽寺と称していたがその実態は六坊聖の庵室=墓寺に過ぎなかった。それでは竜松院と無関係であったのかというと、竜松院も墓所と同じ行基菩薩の開基による「由緒を以信心の者は参詣仕候」と六カ所三昧聖も行基系三昧聖であることを儀礼として受け止めていた。それでも竜松院に依存することなく自立しえた背景には、大坂市中では日々多数の死者を葬送するため、千日六坊聖は自ら聖六坊総代を選び墓地管理や葬送を営む有力な宗教的社会集団を形成していたためであろう。
上別府研究を深化させ千日墓所を中心に町人の葬送儀礼の全体像と市中での変死人・牢死・処刑人などの死体処理と墓所聖の関係について、『道頓堀非人関係文書』を中心に都市の葬送儀礼の特徴=特殊性について明らかにされたのが木下氏の論稿である。
河内国を対象とする吉井論文は先行する個別研究の集大成で、今後解明すべき諸点として(一)三昧聖の発生と系譜(二)惣墓の点定・管理と在地寺院の関係(三)時宗寺院の墓地支配の実態(四)行基信仰の実態と三昧聖の僧侶意識(五)仲間組織の未発達な北河内の実態(六)大保村浄土寺三昧聖量阿弥の実像(七)各墓地での生業の実態などが掲げられ、本稿でもそれに応えられている。
まず河内国の三昧聖を概観するなかで文亀元年(一五〇一)観心寺領内に弔法師なるものが存在し、天文二三年(一五五一)の本願寺証如上人の葬礼の際におん坊がしゅくの者と一緒に野布施を受け、永禄七年(一五六四)の蓮如の末子実従の葬礼記録には聖として登場していることから、河内の各地で三昧聖が成立したのは戦国末期までとされている。
これをうけて近世における呼称・身分・職分・株・住居などの存在形態について述べられるなかで、明和年間の丹南郡小平尾村明細帳にみられる「おんぼう」「聖」「三昧聖」の呼称をめぐる曖昧さについて、おんぼう身分のうち「イエ単位の当主で株の所有者のみが、狭義の三昧聖・聖つまり三昧職であった」というように峻別すべき段階に来ているのではないかと提起されている。しかし呼称の変遷は三昧聖への歴史的な村民側の意識と、今一つは竜松院による法号・法衣の下付による組織化との関係から読み解くべきで、近世を通してイエの当主で株の所有者という基準だけでは区別できないのではないだろうか。
本稿ではさらに行基墓地開創伝承とその現状について丹念に調査され、竜松院との関わりを含めてその全貌を明らかにされている。そのなかで延宝五年(一七四八)三昧聖たちが行基一千年忌供養塔に聖寺寺号を刻んで建立したのは「寺壇制の論理による墓地支配をめざす葬儀引導師・墓郷村方に対抗し、東大寺竜松院の末寺として一宗独立をめざすためであった」と意義付けされている。この点、東大寺に一層近い大和では儀礼的関係にしか過ぎなかったとされる吉田説との違いがなぜ発生したかについて、双方から論証される必要があろう。最後に紀の川筋・泉南地域を対象とされた藤本論文については既に「大阪の部落史通信」一七号で述べたのでここでは取り上げない。
以上は摂河泉の三昧聖研究と深く関わる地域に限って私見を述べたもので、多岐にわたる内容を限られた紙面ですべてをコメントできなかった。ともあれ本書によって明らかにされた三昧聖研究の成果が、さらに他の多様な被差別民研究にも示唆をあたえ、またこれまで、日の目を見ることのなかった死者儀礼に携わる人々の社会文化から、差別や偏見が除去されるためにも本研究が役立つことを願いたい。(なお文献目録中の拙稿の標題に脱字があり、正しくは「近世泉州筋聖の由緒と村落」『賤視の歴史的形成』解放出版社、である)