本書は、四部構成からなる人権学習を中核においた社会教育実践のためのハンドブックである。一読した感想を簡潔に述べるなら「大変よくまとまったハンドブックであり、全国の社会教育施設にぜひ備えておいて欲しい本」といえる。生涯学習時代を反映して、社会教育実践のためのガイドブックはかなり多く出されているが、本書のように人権教育を中核としつつ、成人をターゲットにした性格のものは少ない。まして地域教育を積極的に位置づけつつ、部落解放教育を中心に人権学習を具体的に構想していこうというのは、初めての試みではないだろう
か。特に、成人教育の視点を鮮明に出し、その論理で反差別の教育論を創造しようとした大変注目すべき作品となっている。第1部と第2部の関係性がうまくまとまっているので、以下、前半にやや重きを置いて内容を要約し、その特色を紹介していくことで、その任を果たしたい。
「第1部 求められる地域の成人教育」は、次の2章からなっている。「第1章 地域に根ざした成人教育」と「第2章 地域教育運動としての成人教育」がそれである。前者では地域社会で学習することの必要性を、身近な問題を解決していくことの持つ意味と部落問題との関係に注目しつつ提起したうえで、成人教育の重要性を展開している。成人教育を考える場合、基礎教育の必要性について、一九六五年のユネスコ総会の理解を援用しつつ、それが成人教育に組み込まれてきた過程を次のように述べる。
「成人基礎教育が提唱されてきたことは、識字教育の発展と関連があります。ユネスコでは、識字を生産能力や生活技術の向上と結びつけて、機能的識字の名で、識字教育を広げてきました。このような識字が現状適応的になりかねないことから、フレイレの実践に見られるように、支配的な文化に対する民衆の批判的なとらえ方に着目して批判的識字の提唱も行われましたが、近年は、機能的識字も批判力の形成を組み込んだ概念として使われています。成人基礎教育は、このような識字を中心的位置におきながら、さまざまな生活技術を包み込んだ教育です。読むこと、書くこと、話すこと、聞くこと、計算することなどについての基礎教育に加えて、生活を営むこと、つまり衣食住の生活、健康、社会生活、職業、家庭生活などについての基礎教育があります。コミュニケーション能力の形成といった意味もあります」。(五頁)
識字教育を中核とした成人基礎教育を重視したうえで、「開かれた施設」として公民館、博物館や図書館のほかに、隣保館をあげている。そして、隣保館における解放教育の展開に注目しつつ、その社会教育的機能に注目している。そのうえで「住民リーダーの養成に力を入れるとともに、これまで学習の機会が少なかった人に重点をおき、積極的に働きかけていくことが望まれます」としている。「成人学習の進め方」においては、「根本に人権」が位置づくことが重要である点を強調し、最後にこのような学習の国際的動向を紹介し、第1章は終わっている。
第2章では、部落解放運動との関係において「地域教育運動としての成人教育」に注目していく。「私たちが地域での成人教育に注目するもう一つの理由は、部落解放に向けたこれまでの取り組みと今後の方向性に関わっています。一九九〇年代に入って、第三期の部落解放運動論が提唱されるようになりました。そこで論じられているのは、部落出身者のエンパワメント(自らのちからにに気づき、それを伸ばすこと)や自立、まちづくり、部落内外をつなぐ取り組みなどです。これらは、一つひとつが成人教育に関わる課題です」。このように述べたうえで、部落解放運動がめざす成人教育について具体的課題として以下のようにつづける。
「私たちが部落解放をめざす成人教育の課題として注目するのは、主として次の三つです。第一に、被差別部落の人々のいっそうの自立です。この課題は、部落内でも特に生活の不安定な人々に関わっています。(中略)第二の課題は、まちづくりです。第三期の部落解放運動論では、人間どうしのつながりと自己実現を支えるまちづくりが求められています。まちづくりの活動を通して人と人とのつながりが育まれるプロセスを大切にしなければなりません。(中略)第三の課題は、部落内外の交流です。そのためには、部落問題だけが接点になるのではないでしょう。子育てなど部落内外に共通の課題、環境・男女共同参画・福祉などといったテーマや、グローバルな課題をめぐる共同活動、部落外の地域における主要課題など、さまざまな問題をとおして共同の未来づくりを進めることができます」。(一三頁)
地域教育運動と成人教育、そして部落解放教育という三者を、教育課題をとおして位置づけていくという発想は、なかなか新鮮な印象を受ける。地域教育運動が取り組んできた生活課題、成人教育という概念で対象化された学習活動、そして部落解放運動が追求してきた課題を厳しくすりあわせていく論法は、地域社会の中で今なにが問われているかをクリアーにしてくれている。
この章では、「部落解放に向けた成人教育の現状」の中で「解放運動の課題と教育プログラムの課題とが、大きくずれてきている」点を指摘することで、部落解放運動が成人教育的発想を組み込むことで、どのように大きく展開していけるかを示唆している。
「たとえば、部落内の解放会館や隣保館においてしばしば開かれてきた教育プログラムは、識字学級の他、料理教室、健康教室、裁縫教室、茶道や華道、などです。一九七〇年頃であれば、これらはそれぞれ地域の課題に直結するものでありえました。裁縫教室なども、それが部落女性の仕事保障や家庭生活の充実と明確に結びつくことがありました。茶道や華道などの教室についても、部落における文化活動の充実という意味では、単なる趣味の教室といってすませることはできません。それらは生活機会の拡大につながることもあったからです。けれども現在では、これだけでさきに述べたような課題(成人教育の課題―相庭)をカバーできるとはとてもいえません。しかも、もしもこのような教室や講座が、主に女性が参加するという前提で開かれているとすれば、それは男女の性別役割分担をむしろ強めてしまうといわなければなりません」。(一五頁)
このように従来の教育プログラムの持っていた可能性と限界を切開していく視点は、部落問題の教育プログラム批判検討のみに利用される視点ではない。これは、地域社会で展開されてきた教育プログラムが、反差別の視点を組み込めなかった批判としてみても有効である。
そして論は部落解放をめざす成人教育研究のもつ「二つの問題点」―「自立やまちづくり、地区内外の共同学習や共同活動など、第三期の解放運動において重要視されるようになった成人教育の課題に正面から取り組む研究体制がない」こと、そしてもう一つは「本来幅広い内容を含むはずの『部落解放をめざす成人教育』が統一的に捉えられず、発想が狭くなっている」ことを指摘している。本章は、つづいて「ユネスコ学習権宣言」などの成人教育の国際的動向を紹介した後、最後に部落解放運動がめざすべき成人教育の課題を、以下三点にまとめる。第一点目が、解放会館や隣保館などで提供されている成人教育プログラムの実態把握、第二点目が、自立やまちづくり、被差別部落内外の交流という観点で手がかりとなる成人教育実践の集約、及びそこでの課題の明確化であり、最後に、国際的な成人教育研究動向からの成果の吸収であるとしている。
本書は以上のように、第1部で地域教育運動と成人教育、そして部落解放教育の三者の関係を理論的に整理したうえで、第2部においては各地域実践の紹介・検討を行っていく。第1部で検討された学習課題をきわめてうまく受けつつ、展開されていく実践紹介は、具体的にこれから人権を中核として成人教育を計画していこうとする読者に、十分なヒントを用意しているものである。また、既存の社会教育を中心とした成人教育の方向に、再考をせまるものともいえる。今までも、学習計画に人権保障の観点を含むことの重要性は指摘されてきた。しかし具体的に地域学習計画を立案するとなると、具体的な手がかりが少なく、既存の発想を超える可能性のある事例はそう多くない。それに対して、第2部の内容は展望を与えている。
たとえば、「第1章 その1 A´ワーク創造館がめざす成人教育としての職業教育」などは、今日の平均的職業教育の在り方を改めて考えさせられる報告である。また「第2章 その1 人権文化のまちづくりのための生涯学習・成人基礎教育」において図式化されている人権文化創造のサイクルは、地域学習計画を立案していく時、参考になる点が多いと思われる。紙面の関係上、逐次紹介できないが、一つひとつの事例が、発展可能性を有しているとみえる。
また第3部において、第2部の事例を手がかりに、具体的に学習プログラムを構想する際の手順が示されている。学習計画を立てるにあたり、生涯学習研究の分野で参考とすべき議論を押さえて、その手順が丁寧にまとめられている。ただし、第2部で紹介された実践から理論的に引き出されてくる計画立案の原理をもう少し紹介してくれると、まとまりがよかったかもしれない。いずれにしてもよくまとまった書であることには変わりはない。社会教育関係者のみならず、学校関係者にもぜひ一読を勧めたい書である。