一 本書の概要
ウィルソンの問いはシンプルである。一九六〇年代半ば以降、インナーシティにおいて、主に黒人からなるゲットーの〈アンダークラス〉の人々に見られる、貧困の深刻化・暴力犯罪の頻発・家族の崩壊と未婚女性世帯主の増加・福祉への依存などの事態は、何によって引き起こされたのか(ここでは、それらを〈アンダークラス〉問題と称しておこう)。その問いに答え、どのように問題を解決するべきか、提言を行ったのが本書である。
第一部は「ゲットーのアンダークラス、貧困、社会的混乱」の要因について分析が行われている。
特に一九八〇年代以降、ゲットーの〈アンダークラス〉の状況が破局的な事態を迎えたことは明白であった。〈アンダークラス〉の中核をなすのは黒人であるから、読者はその原因としてすぐに〈人種差別〉という答えを想起する。しかし、ウィルソンによれば、答えは「人種差別」だけではない。
一九六〇年代に〈アンダークラス〉についてもっとも影響力のある議論を行ったリベラルな立場を代表していた社会問題研究者は、ゲットーで社会病理が悪化したことを率直に論じたがらなくなった。その理由は四つある。一つ目、差別者の主張の正当化に繋がるようなゲットーの住民に不利な行動には何であれ目をつぶった。二つ目、〈アンダークラス〉という用語はレッテルにすぎないとみなし、その用語法について論争していた。三つ目、〈アンダークラス〉が存在することそれ自体を否定する証拠だけを選んで、それを前面に押し出していた。四つ目、インナーシティで社会的混乱が著しくなったことを認めはするものの、その原因を、アメリカ社会になお厳然と存在する「人種差別」に求めていた。
しかし、「人種差別」ですら有効な説明要因ではない。なぜなら、黒人コミュニティ内での経済的格差の拡大を説明できず、しかも公民権運動以前ではなく公民権運動が勝利した後にそれらの現象があらわれたのはなぜかという問いに答えることもできない。要するに、リベラル派の視角が説得力をもてなくなったのは、ゲットーの〈アンダークラス〉およびインナーシティにおけるゲットーの社会病理が深刻化したことを直視しなくなったからだとウィルソンは述べる。
逆に一九八〇年代以降影響力を持った保守派は、オスカー・ルイスの「貧困の文化」論を用いて〈アンダークラス〉問題を説明していた。ルイス自身は、人々の文化的特性は社会の大きな構造変動のなかで変化すると述べていたのであるが、保守派は貧困の原因として、文化的伝統・家族の歴史・個人の特性にのみ焦点を合わせた。つまり、〈アンダークラス〉問題が起こった主要因は、〈アンダークラス〉の文化や人々の特性そのものにあるという説明である。
対してウィルソンは、〈アンダークラス〉問題への「人種差別」の影響を認めつつも、リベラル派、保守派のどちらの説明も支持しない。彼は、アメリカ経済の構造変化(現在の日本の状況に極めて適合すると思われる製造業からサービス業への変化)、インナーシティに住むマイノリティ人口の年齢構造の変化、インナーシティの階層構造の変化が、「人種差別」以上に当時の苦境をもたらしたと結論づける。つまり、一九六〇年代以前のインナーシティ内のコミュニティには、労働者階級や中産階級専門職の家族など様々な階層の黒人が居住しており、なおかつコミュニティとしての一体感があった。そこでは規範や制裁措置もまだ有効に機能しており、それらが犯罪行動を未然に防いでいたのである。そのことをウィルソンは〈社会的緩衝装置〉と呼ぶ。しかし、アファーマティブ・アクションの意図せざる結果として、黒人中産階級や黒人労働者階級がゲットーから出て行ってしまったため、コミュニティが機能不全に陥り〈社会的緩衝装置〉は失われてしまったのである。一九八〇年代の経済成長の停滞や周期的な景気後退、都市の産業構造の変化によって引き起こされた長期・大量失業は、〈社会的緩衝装置〉の喪失による、〈集積効果〉=「不利な立場に置かれた人々が圧倒的に多い地域で見られる機会の制約」(二三九頁)と、〈社会的孤立〉=「アメリカ社会の主流をなす人間や施設との日常的な付き合いや関わりがない状態」(一〇六頁)により深刻化したと説明するのである。
では、そのような要因がもたらした〈アンダークラス〉問題はどのように解決されるべきなのか。第二部は「ゲットーのアンダークラスと公共政策」について述べられ、〈アンダークラス〉問題を解決するためにはどのようなプログラムが必要なのか、提言を行っている。ウィルソンは、アファーマティブ・アクションのような人種を特別に重視する政策では、〈アンダークラス〉の人々のように本当に不利な立場に置かれた人々の問題を解決できないとする。実際に、アファーマティブ・アクションは黒人の富裕な層に恩恵をもたらし、貧困層には効果をもたらさなかった。それらを解決するためには、〈アンダークラス〉問題を人種問題としてのみ位置づけるのではなく、全ての人種を対象とした「広範な有権者の支持と参加が得られるような普遍的プログラム」すなわち「人種を問わず有利な立場にある人々が積極的に関われるようなプログラムを全面に押し出すことが必要」(二〇一頁)とする。具体的には、黒人だけを対象としない完全雇用達成と経済成長を均衡のとれたものにする経済改革プログラムを提唱しており、そうすることによって、〈アンダークラス〉問題を解決すべきだと主張する。
二 部落問題研究への示唆
本書は〈アンダークラス〉論争と称される議論を呼び起こし、すでに様々な側面から評されており、特に人種問題・階級問題研究において活発に議論されている。しかし、評者は主に現代の部落問題について研究を行っているため、評者の関心に照らし合わせて、ウィルソンの研究姿勢と知見からあえて部落問題の研究者は何を学ぶべきか、検討したい。もちろん、現在の日本社会と部落の状況と、当時のアメリカ社会と黒人の状況を比較・検討できるのかどうかは慎重でなければならない。そのため、少々技術的な次元の議論になるとは思いつつ、三つ提言を行いたい。
まず、ウィルソンの説明は、「差別」を一変数と位置づける試みと言い換えることができよう。つまり、リベラルな研究者は、「人種差別」を唯一の説明変数とし、〈アンダークラス〉問題を従属変数として、差別の結果としての貧困・社会病理という枠組みを前提としすぎていたのである。しかし、ウィルソンは差別はあくまでも一つの説明変数にすぎないことを極めて明快に論証している。翻って、部落問題研究においても、部落差別を唯一の説明変数とし、部落の社会経済的不平等を従属変数として、差別の結果としての不平等という枠組みを前提としすぎていたのではなかろうか。もちろん、部落差別は部落の社会経済的不平等の要因として否定できるものではない。しかし、なぜ社会経済的不平等は維持されているのかという問いに答えるためには、ウィルソンが用いた他の説明変数を考慮せねばなるまい。すなわち、部落差別という要因に加えて、日本の社会および経済構造の変化、部落に居住する人口の年齢構造の変化、部落の階層構造の変化、そして部落のコミュニティ機能の変化など、さまざまな社会構造・変動と関連づけて考えねばならない。
続いて、たとえ我々がウィルソンと同じような関心を持っていたとしても、統計の不備の問題に直面する。一九五〇年代以降、個々の被差別部落を対象にその社会構造を明らかにするコミュニティ単位の調査が行われた。それらの調査では部落の社会病理的な側面をあぶり出すという関心も高かったが、徐々に部落の病理現象に関する調査は行われなくなった。これらはアメリカのリベラル派が〈アンダークラス〉の言葉の定義にのみ集中して論争を行う研究姿勢や、〈アンダークラス〉で生起している問題を直視しないという傾向に対応している。また、仮に部落差別がなくなったとしても、現実に存在する地域、特にインナーシティにおける不平等問題にも目を向けなければならない。社会的に困難な状況に置かれた地域を対象とした緻密で継続的な調査は、部落と規定されるところでなくとも必要であるし、そうした地域と部落の状況とを比較検討せねば、客観的に部落がどのような状況に置かれているのかすら検討できない。
最後に、これまで我々は部落=地域という考え方をもとに、あまりにも「部落」と「部落外」を地理的に捉えがちであった。しかし、「都市」部落の現状を丹念に見据えた場合、昨今の調査結果からは、部落の高学歴高所得層が部落外に流出し、部落外の低学歴低所得者層が流入していること、さらに流出の方が多いことが明らかとなっている。つまり、「都市」部落においては部落問題は決して「部落民」が定住する地域の問題としてのみとらえられず、都市低所得者層の問題と重なり合う部分が増大していると考えられる。そうした状況から、かつて身分的共通利害・共通感情を基礎とした「部落民アイデンティティを持つ人々」=「部落民」の集住地域としての部落において、これまでみられたような地縁・血縁を基礎とした〈社会的緩衝装置〉の解体は間近に迫っていると思われる。なぜなら、特措法期限切れを迎え、同和住宅が一般施策としての公営住宅に切り替わるのならば、これまでもその兆候が見られる低所得層の流入にいっそう拍車がかかることは目に見えているからである。今後の政策いかんでは、「都市」部落は、コミュニティ再生の道を歩むのか、それとも都市低所得者層が集住する傾向に拍車がかかるのか、重大な岐路に立たされていると言えば、言い過ぎだろうか。従来の〈社会的緩衝装置〉を生かす方向性を見据えなければ、階層的な問題がさらに集中する可能性は高い。
三 最後に
私見が多く、書評としては逸脱してしまった感もある。それだけウィルソンの研究姿勢から学ぶべきことが多く、かつ刺激的であったということである。「普遍的プログラム」など解決法の是非は議論が分かれるだろうが、多様な変数を用いて問題の要因を析出し、課題を解決しようとするウィルソンの真摯な姿勢は、一読し、学ぶに値するものである。