本書の中で池田寛が「教育コミュニティ」づくりの重要性と今日的意義を以下のように指摘している。少し長いが紹介したい。
「直接の契機は、いま世間を騒がしているいわゆる『学力低下論』である。(中略)その批判は的はずれではないし、学校教育の現状を鋭くついている点では評価できるが、日本の学校や学力をめぐる社会状況を考慮すると、学力低下論は、点数で示される学力や進学率といった観点で学校を評価する風潮を強めてしまうことになるのではないか。」
「私は、子どもたちに学力をつけるというのが学校の重要な役割であるということを認めつつも、学校の役割や教育の目的をそれだけに限定すべきではないと考えているし、学力向上という目標はあまりにも明確であり、人に訴えかけるものであるだけに、それに限定した議論ばかりが注目されることによって、学校教育が果たすべき別の側面が見失われるのではないかというおそれを持っている。学力低下論をめぐる議論の中で、学校の公共的な役割は何かという議論や問題提起があまりにも少ないのではないか。そういう問題意識を教育学者は持たなくなってしまったのではないかと思われるほど、真正面から学校教育の公共的な役割を論じたものがほとんど見当たらないのである。」(129頁)
教育コミュニティづくりを提起するもう一つの問題意識を、紹介したい。1990年代以降のアメリカの貧困とコミュニティの問題を有機的に関連づけて研究しようという動きのきっかけとなったといわれるW.J.ウィルソンの『アメリカのアンダ―クラス』を引用しながら、今日問題にしなければいけない点は、「『社会的孤立』であり、その観点からアンダークラスの問題を考察し解決策を探っていくべき」(72頁)であるとしている。
そしてアメリカの教育実践や研究への関心から、「学校活動への保護者の参加や学校とコミュニティとの協働活動は、学力向上の効果、中退抑止の効果、生徒の態度や行動面での効果といった学校側から見た肯定的な影響だけでなく、家庭での親子のコミュニケーションを促進したり、保護者の学校教育や家庭教育への関心や責任意識を高めるなどの好影響をもたらす」「特に注目したいのは、アメリカの参加=協働論は、低階層やマイノリティ家庭に対する参加=協働の効果や影響に焦点を当てていることである。日本の学校参加論には欠けているこの視点が、アメリカの参加=協働論では中心テーマとなっているのである。(76頁)」という。
こうした問題意識を第2部、第3部で展開するとともに、第1部では、大阪各地で進められてきた地域教育協議会(すこやかネット)の取り組みの到達点や教訓、課題をさまざまな角度から可能な限りまとめようとしている。
また今日、部落問題の根本的解決を求めた「第3期の解放運動」として、校区レベルを舞台にした取り組みを追及している部落の地域教育運動にとっても、当然ながら多くの示唆を含んでいる書である。