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書 評
 
評者杉本 弘幸
部落解放研究151号掲載

秋定嘉和・朝治武編

『近代日本と水平社』

杉本 弘幸


 全国水平社創立八〇周年を迎えた二○○二年は、各地で様々な企画や記念行事が行われた。本書『近代日本と水平社』もその一つである。執筆者は全国各地から二四名に及ぶ包括的な論文集である。いみじくも本論文集の構成のあり方自体が現在の水平運動史の現段階と課題を呈示している、という意味で極めて示唆的な書である。

 以下構成を示そう。

水平社に関する研究史と本書の概要  秋定 嘉和

第一部 水平社の歴史的位置

国民国家と水平社 今西  一
被差別部落と性差別 黒川みどり
大逆事件後の融和政策 八箇 亮仁
水平社創立と民衆―奈良県の事例から― 関口  寛
『同和通信』と初期水平社  金井 英樹
「暴力行為等処罰法」の成立とその発動 廣畑 研二
日本水平社の主張と運動 朝治  武

第二部 地域社会と水平社・融和団体

水平社未組織県における部落解放運動 史―神奈川県・富山県の場合―  藤野  豊
信濃同仁会と長野県水平社 中山 英一
愛知地方における部落問題と水平社運動 斎藤  勇
一九二○年代の滋賀県水平社と地域社会 吉村 智博
一九二○年代前期の町村会選挙と奈良県水平社 井岡 康時
一九三○年代前期奈良県水平社の動向 守安 敏司
兵庫県水平社運動と労農運動 高木 伸夫
全四国水平社の軌跡 増田 智一
高知県水平社と農民組合 吉田 文茂
長崎県水平社の動向 阿南 重幸

第三部 部落差別に向き合った人々

キリスト者と水平社―留岡幸助の部落問題論― 田中 和男
共産主義者・中川誠三と全国水平社青年同盟―「裁判調書」よりみた― 久保 在久
愛媛県水平社の緒戦を飾った二人の戦士 秋本 良次
和歌山県田辺町民の部落差別と融和主義者の行動 藤井 寿一
戦前・戦中の三重県松阪と上田音市 宮本 正人
戦時下における京都市の改善事業と朝田善之助 前川  修


 まず『近代日本と水平社』という課題設定について触れておこう。既に現段階では、地域によって「水平運動」といってもほとんど融和運動と変わらない形で行われていたものもあれば、融和運動の側も、社会運動体としての水平社の独自性であると指摘されている差別糾弾や改善費獲得などの動きをみせていたことが明らかにされている。現在では、一九七○年代以降、渡部徹・秋定嘉和によって主張されてきた「生活擁護」の側面から融和運動を評価する潮流に、再び注目が集まってきている。つまり自主的部落改善運動と水平運動の連続性の強調や、水平運動と融和運動の親和性の強調である。あるいは地域社会と水平運動との関わりや地方政治との関係もトピックスになっている。こうしてみると、かつてのような水平運動に対する高い評価というものはほぼなくなり、「水平運動」というカテゴリー自体が問われており、〈部落解放運動〉としての運動形態・抗議形態の一つにすぎないとされている。全国的なあるいは地域社会の〈部落解放運動〉総体としての分析を行わなければならない、という検討課題が呈示されているのである。

 本稿では紙数と筆者の力量の関係から、本書に収載された全ての論考について触れることはできないことをお断りしておく。論文の各要旨やその研究史的位置については序章の秋定論文が要領をえた簡潔なまとめを行っているので、参照していただきたい。


 行論の必要上、幾つかのトピックスに分けて内容に触れたい。

 第一に、国民国家論的な潮流を積極的に受容している今西一、関口寛の論稿を取り上げる。

 まず今西一の論稿である。今西は現在の水平運動史にとっての重要な研究課題を四点指摘する。第一に水平運動と国家権力や地域の政治などとの関係の追究。第二に水平運動とナショナリズムやマルクス主義との関係を具体的に明らかにすること。第三に水平社宣言の影響力や成立過程の問題。第四に「差別的労働市場」論の深化、さらに部落問題と他のマイノリティ問題の双方を視野に入れた複合的な分析の必要性を提起している。そして水平運動の評価については藤野豊の述べた「『民主主義的改良運動』としての水平運動」という評価を妥当なものとしている。今西の論考で注目すべきなのは「歴史の学会で報告すればマイノリティや差別の問題ばかり話すと批判され、部落史の研究会では『部落問題ではない』と言われる。筆者の力量の問題もあるが、両者の架け橋をつくることが重要」(四八頁)という今西自身の実感のこもった部分である。筆者も以前指摘したが(拙稿「近代日本社会と差別をめぐる研究状況」『部落問題研究』一五八輯、二○○一年)、かつて藤野豊が幾度も強調しなければならなかったように、日本近現代史研究の立場から近代部落問題の特質を明らかにしていくといった立場と、多くの近代部落問題研究者の課題である近代部落問題固有の論理を追究するという立場をどのように整合させるかがいまだ問われている。

 次に関口寛の論稿である。関口はこれまでの自らの研究(「改善運動と水平運動の論理的連関」『部落問題研究』一四七輯、一九九九年、「初期水平運動における政治文化」全国部落史研究交流会編『部落史研究』三、一九九九年)を踏まえて、部落民アイデンティティ論の積極的な展開を行っている。そして水平運動を評価するための新たな認識枠組みとして、「政治的実践の技法としての水平運動」という評価軸を提起する。そして「言説としての部落民」「生活者としての部落民」「集合体としての部落民」という三つのレベルを設定し、「言説としての部落民」しか捉えてこなかったこれまでの研究を批判し、新たに水平運動に参加した民衆の行動分析を中心に論理を展開していく。例えば水平社による演説会や差別糾弾闘争などについては「政治的公共圏」(ハーバーマス)の広がりとして再評価し、あるいは、これまで政治的実践の場から排除されてきた被差別部落民衆が、水平運動という政治的実践を行う技法を身につけて「政治」の場へ参入していく過程を描くことに成功しているといえよう。ところで関口の分析は様々な文化理論や社会理論を援用しつつ行われている。そうであれば、これらの理論に依拠しながら行われる分析が従来の水平運動史像のどのような批判の上に成り立っているのか、いま少し説明が必要ではないか。今西の論稿にもあてはまるが、歴史学界や現代思想の世界でのタームをそのまま利用するだけでは理解不能であり、やはり分析概念自体の説明が求められるだろう。

 第二に、部落問題と他の〈社会的マイノリティ〉の関係に関するものである。現在の研究状況では重要なテーマの一つであるが、残念ながら本書においては黒川みどりの、被差別部落および水平運動のなかの女性という視点のものしかない。

 黒川論文は、婦人水平社研究以外ほぼ存在しないなかで部落差別と性差別という重層的複合的な差別を描き出そうとした。特徴は、史料に表れることが少ない被差別部落の女性を描き出すのにヒアリング史料を多用していることである。これまで特に地域部落史などに顕著であるが、地域の被差別部落の人々のヒアリングが行われ、まとめられている。しかしヒアリング史料をめぐる史料的客観性・信憑性の問題からだろうか、これらを利用した研究はほとんどないのが現状である。文献史料もヒアリング史料も史料批判が必要なのは同様である。むしろ文献史料で事実確認をしつつ、ヒアリング史料で文献史料では分かりにくいイメージの幅を広げることは今後重要になってくるのでないだろうか。水平運動史研究との関係でも、生活史の側から運動史と接合していく試みとしても注目される。

 もう一つ在日朝鮮人と部落問題の関係については、近年研究が積み重ねられつつある。今後ともこの領域は追究をぜひ進めていかなければならない研究分野であろう。

 第三に、〈部落解放運動〉として包括して分析していこうとする研究である。本書では朝治武、藤野豊、吉村智博、井岡康時の論稿が挙げられる。

 藤野豊の論稿は水平社未成立県である神奈川県と富山県を事例に「水平運動・融和運動両者を部落解放運動として包括」して理解しようとしたものである。水平社未成立県では実際に融和団体の組織に依拠しながら差別撤廃運動が行われたことを、藤野のこれまで研究に依拠しながら明らかにしている。部落解放運動=水平運動という図式を取り払おうとする試みの一つである。地域ごとの社会構造や政治的環境のあり方、水平運動と融和運動との関係などに注意しながら分析していこうという提起でもある。

 朝治武の論稿は研究史上ほぼ研究のなかった日本水平社に関する専論である。この論稿も、部落解放運動=水平運動という図式から逸脱しているがために分析されなかった日本水平社、および南梅吉研究の一環としての位置づけを持っている。

 吉村智博の論稿も滋賀県を事例にして、結成されていなかったとされる滋賀県水平社結成の事実と、融和団体が積極的に改善事業や差別撤廃運動に関与している過程を描き出した。

 井岡康時の論稿は奈良県水平社と地方政治との関係を叙述し、地域における水平運動と地方行政・政治との関係に迫っている。

 第四に、部落解放運動の活動家の言説や行動に着目することで戦前・戦時・戦後を描き出した論稿群である。ここでは守安敏司・宮本正人・前川修の論稿を取り上げる。

 守安敏司は奈良県の阪本清一郎を軸に水平運動との関係との関係をみていくといったアプローチをとっている。ここでは、阪本にとっては全国水平社の結成自体も部落解放運動の一つの手段にすぎず、様々な思想や運動なども「部落差別からの解放にとってどれほど有用かという変換可能な利用対象」であったという結論が導き出される。全国水平社の理念や思想を代表する西光万吉ではなく、実際の運動の推進者・組織者であった阪本からみた水平運動論である。

 宮本正人は三重県の上田音市を事例にして、地域社会を担っていく存在として上田音市を描き出している。上田の思想や行動には一貫して被差別部落民から「無産階級」や「皇民」への同化願望があったとする。研究史上著名な松阪における「労・農・水三角同盟」も部落内部で自己完結してしまうものであったことが指摘される。また、上田の部落経済更生運動や部落厚生皇民運動への参加も上田の中では矛盾なく位置づいており、「その時々の政治状況や力関係に合わせて、ある時は無産階級への一体化、またある時は皇民への同化というような選択をおこなったのではないか」とする。

 前川修は、京都市における戦時下の地区改良事業と戦後の同和事業の連続性を、朝田善之助と京都市社会行政との関係を基軸に叙述している。戦後の行政闘争路線の萌芽が既に戦時期にみられるという議論である。

 最後に、その他の地域水平運動や融和運動・事業史を描き出した論稿群である。それぞれの地域の研究機関の紀要などに発表されたものはこれまでもあるが、本書のように一書としてまとめられることで全国の状況を俯瞰することができる意義は大きい。かつて木村京太郎が〈無組織の組織〉と呼んだ水平運動であるが、全国各地の様々な潮流、活動家たちの事例発掘を、現在の研究動向にどのように位置づけるのかが課題とされよう。

 以上、簡単ながら本書の紹介をしてきた。最後に若干の意見を述べてむすびにかえたい。

 このように水平運動史像の相対化が進むと、なぜ「水平運動=部落解放運動」という虚像が生まれたのかという点が問題になってこよう。それぞれの地域の「ありうべき水平社」像の受容/再編成はどのような形で起こったのだろうか? それは「水平社運動史研究における全体と地域」(藤野豊)の関係の把握とも関係するはずである。当然、当該期の〈社会的マイノリティ〉の運動のなかで水平運動の影響力は大きく、アイヌの「解平社」や白丁の「衡平社」やハンセン病患者の「日本プロレタリア癩者解放同盟」などにも、綱領や組織論、自己正当化のレトリックなどに関して影響を与えていることが研究史上明らかになっている。今後は同時代のなかの水平運動像の変化や戦後の水平運動の捉えられ方の変貌の分析も必要とされよう。

 これまで全国水平社創立の原点である奈良と、全国水平社創立の地であり戦後の行政闘争路線の原点としての京都の水平運動が、水平運動=部落解放運動自体の一つの〈規範〉として捉えられてきた。今後〈規範〉としての水平運動とそのゆくえはどうなっていくのか。その基点として本書は位置づけられよう。誤読をおそれるが、著者および読者諸賢の御海容をお願いしたい。

付記 本稿脱稿後、朝治武・黒川みどり・関口寛・藤野豊著『「水平社伝説」からの解放』(かもがわ出版、二○○二年)を得た。近年の水平運動をめぐる議論を明快に整理した一書である。ぜひ参照いただきたい。

(解放出版社、二〇〇二年三月刊、A5判・五六五頁、九〇〇〇円+税)