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2004.02.02
書 評
 
評者Ju
研究所通信238号より

奥平康弘

放送の自由をめぐるパラダイム転換
―個人の表現の自由と制度的な表現の自由について」

(日本民間放送連盟研究所編
『放送の自由のために―多チャンネル時代のあり方を探る』
日本評論社1997年9月)

  この5月で1周年を迎える神戸小学生殺傷事件の加害者の少年の顔写真の写真週刊誌への公表、その後の調書の月刊誌への掲載、3月末に出された中教審中間まとめにおける「有害情報の遮断」手段として提案されたVチップ問題など、今日的な状況の中で改めて「表現の自由」のあり方が問われている。

 本書は上記の書物の巻頭論文として掲載されているものであるが、筆者は『知る権利』などで知られる著名な憲法学者であり、「表現の自由」の旗手であった。「あった」と過去形で書いたのは、この論文において氏は、現状を憂慮し自らの学問を方向転換させようという意志を感じるからだ。

 論文では、まず公共情報を共有するための制度とそのための市場調整の必要性について提唱する。「人々の道具として国家が機能するためには公共情報が行きわたっていなくてはならない」として、マスメディアとデモクラシーとの関連について述べる。

 そして、公共情報を共有するためには、市場だけに任せておいては行きわたるのは困難であるとし、そのために国家からの自由という<消極的自由>だけではなく、自由を行使するための<積極的自由>が求められる。だから、学校教育のように公共的な機能を果たすためには適切なやり方が必要だとしている。つまり、放送や新聞などのプレスにおいても公共的な言論市場の調整が必要だと述べられている。

  第二に、「放送」は公共情報を広く社会に行きわたらせるための制度と考えられるが、その時、放送の「自由」と表現の自由はいかなる質と意味を持つかについて論を展開する。

  つまり、近代憲法の表現の自由は個人の自由を念頭に置き、今日のような企業化産業化した放送制度を想定していなかったので、表現の自由の物差しは一つしかなく、新聞社・放送局の表現の自由は個人の表現の自由の延長上で考えられた。しかし、市民の表現の自由と放送局の表現の自由が同等、同質というのはおかしい、と氏は問題提起する。

  ここで、言論の自由を原理的に考えるために<話し手のいる言論>と<話し手のいない言論>という区別を提案し、表現の自由を慎重に再配分することを提案する。

  最後に、日本の現状の「非文化的影響」を指摘しながら放送事業における公共性を担う仕組みとして独立行政委員会の必要性を提唱している。

  読んでみて思うのは、非常に慎重にしかも、自らの学問を転換するという苦渋に満ちた論調だと思ったが、公共情報の共有、そのための表現の自由の再配分、さらにそのことを可能にする仕組みの提案など私たちが学ぶべきことは多い。