9・11米国同時多発テロ事件に続くアメリカのアフガニスタン攻撃と今年3月に開始されたイラク攻撃は、武力不行使原則を旗頭に第二次世界大戦後の国際社会を規律してきたはずの国際法がいかに脆い存在であったかを露呈した。国連を舞台にした国際人権法の隆盛が語られる一方で、人権の何たるかすら知らずに生活苦に喘ぐ無数の人々の存在は国際人権法の無力を喧伝している。一連の戦後補償訴訟などへの日本政府の対応は、国益の前に法がいかに簡単に乗り越えられるかを物語っている。
本書はこのようないわば死に体の国際法、特に国際人権法を、市民が実際に使える道具として復活させようとする壮大にして意欲的試みである。おもに2000年-02年にかけて発表した論文などを分類して編み直すことにより、あえて「客観性」という外観に守られた安全地帯を飛び出して、筆者が「国際法を非暴力的で真に包括的なものに書き替える知的・実践的営為」へと足を踏み入れた思考の軌跡が説得的に展開されていく。
以下では紙幅と評者の能力の制限から、27本の論稿のうち本書を貫く筆者の問題意識とそれと格闘する勇姿を伝えるのに必要なものに限って紹介させていただくことをお許し願いたい。
1 グローバル化する国際人権法
「人権の世紀へ」では、国際人権法が国家中心主義的国際法学の周縁部に置かれてきたことにより、人間の生存と生活に関わる国際法領域への浸潤が妨げられてきた現実に関し、その相対的脆弱性の原因を、人権が国際安全保障や国際金融措置の名の下に行われる介入の道具に成り下がり、他の関連法分野に影響を与えることが阻まれてきた点に求める。そして国際人権法を国際法の主流に位置付けるためには、国家中心思考への根元的問いかけと市民的価値の実現に向けた国際法の変容が必要であり、国際法を相対化し批判する基準としての人権法の価値を強調する。
「国際人権と女性」は、1990年代に入ってようやく台頭してきたフェミニズム国際法学に呼応してジェンダーの視点から国際人権規範を脱構築する作業のひとつの到達点として、個人通報手続と調査手続を設けた女性差別撤廃条約選択議定書を取り上げる。さらに国際人権法が国家中心主義を克服しつつある法的潮流と連動しかつそれを推進する契機となるのが国際刑事裁判所の設立である。
「人権の国際的保護と国際刑事裁判所」ではこの法廷を、国際社会の重要な規範(人道に対する罪など)を宣言し、被害者の尊厳を回復し、歴史の修正を阻止し、さらに和解を促進する機能を持つものと期待し、その規程起草にとくに女性NGOが参画したことで国際立法過程に民主的要素が付与されたことを評価する。次に、ピノチェト事件を契機に拷問禁止条約の不処罰の連鎖を断つという役割とその議定書の拷問防止効果を分析し、条約理念の具体化のための政治的契機の強化と現実的可能性拡大の必要性を強調したのが「拷問禁止条約を生かし、超える」である。国際人権法のグローバル化の最後の例証として「瀋陽総領事官事件と国際法」は、50年前には否定的にとらえられていた外交的庇護も人権諸条約の影響を受けてその内容が精緻化されてきている現実を前に、国際的義務に合致した出入国管理政策を日本に迫っている。
2 国際人権基準の国内的実施
「国際人権法と日本の国内法制」は、本来議論される平面の異なる国際法の直接適用可能性と自動執行性を、日本の裁判所は混同して論じてきたことが国際人権訴訟を特殊化し、国際法の適用拒否を正当化してきたと厳しく批判する。憲法上国内法として受容されている国際法は、自動執行性を云々するまでもなくほかの国内法と同様に裁判規範性が推定されるのである。あとは国際人権法ならば国際法の解釈規則を適用して国家が負う義務内容を明確に示すことによって国際人権訴訟のあり方を日本の訴訟実務に適合させれば、人権法を生かす司法的フロンティアの開拓につながると説く。この議論を女性差別撤廃条約にあてはめ、国家の義務内容を詳細に展開したのが、大阪高裁への鑑定意見書として書かれた「司法におけるジェンダー・バイアス」である。また居住権が持つ諸側面とそれらに対応する国家の重層的な義務を明らかにし、社会権規約の裁判規範性を一義的に否定することの誤りを指摘したのが、千葉地裁松戸支部に提出された鑑定意見書「国際法における居住権の相貌」である。
「難民条約と60日ルール・再考」も鑑定意見書として書かれたもので、未来予測的な難民認定ではなく、過去に起きた事実の評価を申請者の難民性の決定的要因とする60日ルールは、日本が遵守すべき難民条約の規定およびその解釈と一致しないものであると警鐘を鳴らしている(2003年9月1日施行の出入国管理及び難民認定法の改正により、申請期限の6カ月への延長と難民申請者の権利の多少の拡充が図られたことを初めの一歩として、今後の日本の難民法制の行方に注目したい。─評者)。
3 沈黙、忘却、国際法
アジアから突き付けられた日本の戦争責任を問う戦後補償裁判に深く関わってきた筆者は、これら一連の裁判が国際法の脱構築を求める世界的潮流と連動し、それを推進する一翼を担っていると考える。「戦後補償裁判の光芒」では、日本政府が個人請求権はサンフランシスコ平和条約によって消滅済みであるとの見解を公にし始め、ますます態度を硬化させる一方で、これまでの裁判軌跡には請求棄却という主文の陰に隠れた成果も見受けられると評価する。
欧米中心主義、国家(支配エリート)中心主義、男性中心主義そして現在中心主義といった政治的価値を投影するための社会装置であった国際法の前に、最も周縁部に位置付けられてきた人々が沈黙を破ったことによって、国際法が体現する国際的正義の射程を拡張する契機が到来しているのである。この視点から「女性国際戦犯法廷が映し/創り出したもの」は、たとえ判決に拘束力のない民衆法廷であっても国際社会の構成員が遵守すべき拘束的規範を提示することに意義があると論じる。
国際法を支えてきた政治的価値の対極に置かれた非欧米、市民、女性かつ過去といった周縁的要素をすべて備えた日本軍性奴隷制の被害者に「法廷」が焦点を当てたことにより、閉鎖的な国際法のあり方を批判的に問い直し、その脱構築と再構築に向けた道標を示す機会となったと評価する。
今後の課題はこの法的成果をいかに日本の政策決定過程に浸透させていくかであるが、既存の国際法制度のあり方を厳しく問うフェミニズムの思潮の欠落によって、日本の法行動を沈黙という形で支え続けた国際法学の社会的責任にも批判が向けられている。「在日『慰安婦』訴訟と国際法」は、東京高裁に提出された鑑定意見書の後半部分である。ここでは強制労働条約の裁判規範としての内容の明確さ、賠償請求権の根拠とするに足る国家責任解除に関する国際法の国内法化を論証し、賠償請求が不可能ではないことを論証している。
4 市民社会の眼差し
本章では、国家による国家のための法であった国際法を、市民による市民のための法へと変革するためにNGOが担う役割と課題が論じられる。
「NGOから見た国際法」では国際法の立法過程への参加、実施過程の民主化、遵守させるための人権条約機関などへの働きかけ、さらには直接行動に至るまで、国際法の閉鎖性を解き放つNGOの役割が評価される一方で、国際法の脱国家化に抵抗する政策決定エリートの存在やNGOコミュニティーが持つ欧米偏重傾向の問題点が指摘され、NGO活動を適切に評価するための認識枠組みを国際法学に求めている。
「人権NGOの苦悩」では、具体的にアムネスティ・インターナショナルを取り上げ、転換点を迎えたNGOの他の人権NGOとの連携、国家中心主義からの脱却、人権の一体性・普遍性の実現方法そして平和と人権の関係の把握といった膨大な課題への示唆を提供している。そして驚くほどの勢いで重層的に精錬され深化し始めている国際人権基準が本当に意味を持つのは各国の政策決定過程に影響を与えた時である。人権の実現・確保に第一義的責任を負うのはあくまでも国家であるとの認識に立って、国際人権基準と政策決定を連動させる制度的回路を構築することに市民社会は知力を投下するべきであるというのが「国際人権の裸像」の主張である。
5 国際法をまたぎ越す力、守り/作り出す力
最終章は、ある意味で暴力的方法によってあっさり改編され無力化されてしまった国際法の現実とそれに対する国際法学の役割が論じられる。ブッシュ大統領はテロ行為に対する米国の戦いを文明全体の戦いと位置付けることによって、国際社会の一般的利益の外観を装着させることに成功し、自衛権の保護法益を「文明全体=米国(とその同盟国)の支配層」にすりかえてしまった。
国際法学はそれら先進国の逸脱行為を正当化することなく、文明や国際社会という大義名分の下にだれの利益が投影されているのかを見極めていかなければならない。またテロ行為の実行者の特定と司法的裁きは、国連集団安全保障体制のなかで、国際的正統性を体現したものでなければならず、人間の安全保障を外交の柱に据えつつある日本が生活環境を奪われた人々への支援に関して果たすべき役割は大きいと述べる。
一方で米国内外から「新しい戦争」の停止と国際法の遵守を求める民衆による「水平のグローバリゼーション」が進んでいることも事実である。その意味でも、国際法は支配エリートの価値に寄生する法ではなく、民衆の生の力に根ざすものとして、その存在意義を再構築されるべき時が来ているとの主張で一貫している。
若干の感想とコメントを以ておわりにかえさせていただく。
本書を貫く問題意識は非常に明確で、欧米中心・国家中心・男性中心・現在中心主義で彩られた国際法を、その周縁に位置付けられてきた市民の手に取り戻すあるいは引き渡すことである。そのために既存の国際法制度へのチャレンジを試みるフェミニズム国際法の思潮の有用性が随所で強調されている。確かにフェミニズムが国際法学に見事に欠落してきた視点であることは認めるとしても、人間の生活のあらゆる場面を規律するようになってきた国際法の幅の広さからすれば、より一般的に弱者・少数者の視点が求められるのではないだろうか。
次に、国際人権法の精緻化が他の国際法分野の解釈・適用に大きな影響力を持って浸透している事実は説得的である。一方で伝統的な国家責任法が人権条約違反の被害者に二次的権利を与え、その法律関係が国内法化されるとの主張は、第一義的には国家による国内的実施に期待する他ない国際人権法にとって、かえって危険な賭けになりはしないだろうか。
さらに民衆法廷の意義が強調されているが、その成果を政策決定過程に浸透させるためには、国際法学自身の変貌はもちろん必要であるけれども、政府を巻き込むことによって対立の図式に持ち込まない、実際的な知恵も必要なのではないだろうか。
このような些少な疑問は、国際法学を支える伝統的政治的価値の創造的変革を試みる本書の壮大な野望をいささかも損ねるものではない。国際法学の徒であり、女性であり、実践的な国際人権法を志向しながらも鑑定意見書に四苦八苦する評者にとって、まさに一頁ごとに耳の痛い示唆をいただいた一冊であった。