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2004.04.23
書 評
 
評者藤田 武志

志水宏吉著

学校文化の比較社会学
―日本とイギリスの中等教育

(東京大学出版会、2002年9月刊、A5判・353頁、5,800円+税)

 青少年によるさまざまな事件が起きるたびに、学校教育はもはや機能していないと声高に指摘される。そのことに象徴されるように、学校への視線は多くの場合、学校や教師に「ない」ものをとらえようとしている。その反面、学校のなかで実際に行われていることや、それが基づいている原理といった、学校のなかに「ある」ことがらは、あまり顧みられない。つまり、日本の学校の不十分な点が強調されることによって、ありのままの姿が見逃されてしまいがちなのである。

 そのような傾向を正すように、本書は、日本とイギリスの学校におけるフィールドワークによって得られたデータをもとにして、両国の学校文化、すなわち、学校で展開されている教育活動の実際と、その背後にある教育の論理を描き出している。そのようにして両国の学校のありのままの姿を把握することから、学問的、実践的な示唆を得ようとするところに本書の大きな意義が存在している。

 また、本書の考察の対象が中等教育であることは、両国の学校をとらえる上で重要な意味をもっている。なぜなら、学校は子どもたちの教育だけではなく、異なった社会的ポジションへの配分も行っており、そういった教育作用と選抜作用が劇的に出会う場をとらえられるという点で、分化前の初等教育でも、分化後の高等教育でもなく、まさに中等教育がふさわしいからである。そのように、教育と選抜がするどくクロスするありさまを比較分析することは、まさに日本とイギリスの教育の要諦をつかむことに他ならない。

 本書の描写の中心になっているのは、1980年代後半に三年にわたって行われた兵庫県尼崎市の公立中学校におけるフィールドワークと、1990年代初頭に行われたイギリスのコヴェントリー市のコンプリヘンシブ・スクールにおけるフィールドワークから得られたデータである。また、フィールド調査の終了後、1990年代半ばごろに尼崎市とコヴェントリー市でそれぞれ行われた調査も用いられている。それらの調査データを利用し、教育に関してきわめて対照的な行政管理システムや文化風土を有している両国を比較することによって、それぞれの学校文化の特徴がより鮮明に浮かび上がっているのである。

 なお、コンプリヘンシブ・スクールとは、6-7年制の中等教育機関であり、日本の公立中学校のように、大多数の子どもが通う学校である。

 本書は第1部と第2部の二つの部分から構成されている。第1部は、両国における学校文化の構造をとらえる部分であり、いわば学校文化の「静態」を明らかにしている。それに対して第2部は、学校文化の変容を把握する部分であり、学校文化の「動態」を描き出している。その両者が絡み合うことによって、教師たちの実践のダイナミックな総体がありありと描出されている。

 第1部は1章から3章の3つの章から成る。1章では、中学校とコンプリヘンシブ・スクールという両国の中等教育機関の共通性と相違点について考察している。2章では、南中という日本の中学校でのフィールドワークをもとに、「指導」という用語をキーワードにして描き出し、中学校教育の内実を学習指導、生徒指導、進路指導の複合体として把握している。3章では、リトルレイクというイギリスのコンプリヘンシブ・スクールの学校文化をフィールドワークにもとづいて描写し、ティーチング、パストラル・ケア(生徒指導に相当)、キャリア・ガイダンスという活動がそれぞれ別個に展開されるものとしてとらえている。

 それらの考察にもとづき、両国の学校文化を基底的なところで支えている「教育のエートス」のコントラストが四つ抽出された。第一に、日本ではすべての生徒を一定の標準まで引き上げることを目標とする「標準主義」にもとづくのに対し、イギリスでは生徒個々人の能力や興味などを伸長することを目標とする「個性主義」に立脚している。第二に、日本では達成度よりも努力を重視したり、努力によって能力の不足は補えると考えたりする「努力主義」が根強いのに対し、イギリスでは、能力の違いに敏感に反応し、子どもが見せる能力の萌芽を伸ばそうとする「能力主義」を基盤としている。第三に、日本の学校では仲間との競争や集団内の序列にもとづいて賞賛されたり批判されたりすることが多い「競争主義」が優勢であるのに対し、イギリスの学校では、生徒が何かを成し遂げたときには、成し遂げたこと自体に価値を見出し、他の生徒との比較をすることなしに賞賛の言葉を投げかける「達成主義」が見られる。最後に、日本の教師は、生徒に対して全人格的に関わろうとする「全人主義」を行動原理としているのに対し、イギリスの教師のそれは、それぞれの専門の領分において生徒と接しようとする「限定主義」である。

 第2部は、4章から6章から成り立っている。4章では、学校文化に変化をもたらすシステム内要因の一つとして「マイノリティー生徒の存在」を取り上げ、彼らの存在が日本とイギリスの学校文化にどのようなインパクトを与えてきたのかについて考察している。5章では、学校文化を変化させるシステム外要因の代表的なものとして「教育改革」に着目し、カリキュラム面での改革が学校現場にどのようなインパクトを及ぼしつつあるのかを検討している。6章では、日本の中学校の学校文化の変化に焦点を絞り、その中核をなす「指導」概念の変容と中学校現場に与える影響について考察している。

 それらの考察によって、学校文化の変化に関して、以下のような両国の特徴が見出された。まず、マイノリティー生徒のインパクトについて、イギリスの場合は、マイノリティー生徒の存在は、個人のニーズに合わせたサポートを旨とするコンプリヘンシブ・スクールの学校文化の形成を促すものであった。具体的には、マイノリティー生徒への教育を専門的に行う組織が存在しており、その組織に属する教師が通常の授業に入り込み、教科担当の教師たちと連携しながら、個々の生徒の言語ニーズに合わせた指導を行っている。一方、日本の事例では、部落出身生徒の教育に配慮し、加配教員が配置されている。しかしそれは、部落出身生徒を固有の社会集団として特別に処遇するのではなく、彼らの存在をテコとしながら生徒集団全体への働きかけを改善する筋道を通して行われているのである。つまり、部落出身生徒の存在は、「しんどい子ほど手をかける」という中学校文化を強調させる役割を果たしているのである。

 次に、教育改革の影響について、イギリスでは「教育の中央集権化」と「市場原理・競争原理の導入」といったいわば「教育の日本化」とでも呼びうる方向性の教育改革のもと、混合能力編成が崩れ、能力別編成が強化されつつある。すなわち、教育改革によって生徒に対する分化の圧力が作用しはじめ、コンプリヘンシブ・スクールに大きなインパクトを与えているのである。それに対し、日本の教育改革は、教育システムの分権化や多様化、生徒の個性や創造性の尊重など、かつてのイギリスの教育が有していた特徴を持つ教育へと作りかえていこうとするものだと言える。そのような改革に対する教師たちの評価は、イギリスとは対照的にネガティブなものにとどまっていた。しかし、「指導にのらない子どもの大量発生」や、学級王国などの「日本型システムの崩壊」という二つの社会的要因によって、学校文化の中核とも言える「指導」が「支援」というコンセプトに置き換えられつつある現在、安定的であった指導文化にも「ゆらぎ」が生じはじめている。

 以上の分析をふまえ、終章では、学問的な合意について考察されている。それは、中学校およびコンプリヘンシブ・スクールの実態把握、学校文化論、選抜と教育の研究、比較教育学、マイノリティーの研究、政策社会学的研究といった六つの領域にわたって指摘されており、本書の提出した知見が照射する範囲の広さを示していよう。

 ここまでに示してきたことから明らかなように、本書は、両国の学校教育の特徴を、学校のなかに「ある」ことがらをつかみとることによって浮き彫りにしている。それは、それぞれの学校教育に「ある」教育的効果を把握することだとも言えるだろう。たとえば、生徒の全人格的な成長をうながすためには、本書で日本の学校文化として指摘されている、生徒の信頼感を得ようとする「つながる指導」や、しんどい子ほど手をかけるという「逆トーナメント型指導」が有効であるに違いない。

 それに加え、本書は、学校のもつ可能性をも提示している。上記のような日本的な指導は、相対的に学力の低い生徒をケアすることで、学校における学力格差を全体的に縮める可能性がある。実際、このような可能性については、本書の著者自身によるその後の調査によって確かめられている。すなわち、本書のような取り組みの行われている学校では、そうではない学校よりも学力の格差が小さいことが示されたのである。学力の国際比較調査でも、日本の子どもたちの学力の分散が小さいことが繰り返し指摘されてきたが、その背景には、このような学校文化の存在を指摘することができるかもしれない。

 学校をよりよくしていくという実践的な目的のためにも、学校のありさまを理論的に把握するという学問的な目的のためにも、学校に「ない」ものを指摘するだけではなく、本書のように「ある」ものをきちんととらえていくことが求められよう。

 では最後に、本書をふまえた上で、学校文化について今後さらに考えていくべきことをいくつか指摘することにしたい。

 第一に、本書では部落出身生徒の存在は、日本の中学校に一般的な学校文化を強調させる役割を果たしたと分析されている。もちろん、日本の学校に「ない」ところを充実させるため、イギリスのようにマイノリティーの生徒だけに働きかけるような施策も望まれるのは言うまでもない。しかし、本書の知見から示唆されるのは、いわゆる「しんどい学校」でのとりくみは必ずしも特殊なものなのではなく、一般的な学校文化のレパートリーのなかにすでに組み込まれているということである。そうだとすれば、今後は、そのような学校文化を多くの学校でいかに活性化させていくかといった実践的な問いと同時に、そのような文化がどのようにして学校に根づいていったのかという学問的な問いを追究していくことが要求されるだろう。

 第二に、本書では教師文化を通して両国の学校文化をとらえることに成功している。本書でも言及されているが、学校文化をとらえる場合には、教師文化と生徒文化とのダイナミックな関係に着目する視点もありうる。それゆえ、生徒はどのような文化を形成しており、それは教師文化とどう結びついているのかといった点について生徒側から考察していくことは、本書の知見をさらに発展させていくことにつながるだろう。

 最後に、矢継ぎ早の教育改革が進行しつつある現在、それらの改革の評価をきちんと行うためにも、学校文化にどのような変容や影響が生じているのかをきちんと検討していく必要がある。そこでは、本書で採用されているような現場の当事者たちの視点をとらえようとするスタンスや、ねばり強く地道な研究を積み重ねる姿勢が何よりも大切である。