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2004.04.23
書 評
 
評者白木 正俊

重松正史著

大正デモクラシーの研究

(清文堂出版、2002年8月刊、A5判・357頁、8,800円+税)

 日本における「大正デモクラシー」研究の第一人者である松尾尊ú~氏は、かつて、その著書『大正デモクラシー』(岩波書店、1974年)の中で、「大正デモクラシーとは、日露戦争の終わった1905年頃から、護憲三派内閣による諸改革の行なわれた1925年まで、ほぼ20年間にわたり、日本の政治をはじめ、ひろく社会・文化の各方面に顕著にあらわれた民主主義的傾向」であり、「社会の最底辺たる被差別部落へと根をひろげた、かならずしもインテリとはいえぬ広汎な勤労民衆の自覚に支えられた」「政治的、市民的自由の獲得と擁護のための運動」であると「大正デモクラシー」の概念を定義した。

 本評で取りあげる重松正史氏の『大正デモクラシーの研究』は、その名が示す通り、まさにこの定義に“ほぼ”合致した「大正デモクラシー」研究の論集である。重松氏は本書で日露戦後から1920年代にいたる和歌山地方の市政、県政、部落解放運動における様々な政治勢力台頭の実態を、まさに「広汎な勤労民衆の自覚に支えられた」「政治的、市民的自由の獲得と擁護のための運動」として描き出した。

 しかし、そこで表現されている世界は松尾氏のそれとはやや異質である。なぜなら、重松氏は最底辺の民衆まで視野に入れた地域社会内における社会的結合関係を丹念に解明したことにより、単に「政治的、市民的自由の獲得と擁護のための運動」と述べるに止まらない地域社会が内包する多様で重層的な利権関係を如実に明らかにしたからである。そこで登場する人々は、思想的に様々に葛藤しながらも個人の自立意識に目覚め、政治的自由獲得のために気高く自らの志を貫こうとする普選運動の闘士や、聖人の社会運動家の姿ではない。とりわけ非政友会系の政治勢力の分析で顕著だが、土建・興行・電鉄など様々な資本と深く結びつくことにより自らの利益と下層大衆の利益を拡大し、政治的社会的地位の上昇を成し遂げようとする「中流以下」の野心家の地方政治家であり、その利権の恩恵にあずかろうと群がる多くの下層民衆の姿である。それは普通選挙が実現して間もない1930年代前半には政党政治が凋落し、金権腐敗の温床として国民の支持を喪失していったことを早期に予見しているようにさえ思える。重松氏は、国民の政治参加要求が拡大する日露戦後から1920年代の「大衆民主主義状況」が生み出した社会病理とも言える“ネガ”の部分を解明した。本書の全体を貫く独自性はここに集約される。この点を踏まえた上で、以下、微力ながら本書の意義と、若干の疑問点を提示することにより、筆者なりの書評としたい。

一 本書の意義

 第一に、これまで充分に解明することが困難であった都市内部の社会的結合関係を下層大衆にまで押し広げ、「大衆民主主義」の実態を明らかにしたことである。和歌山という独自な地域社会内部において、単純に政党や地縁・血縁により系列化されない複雑な社会的結合関係を、有力な資本家・政治家から社会運動家・遊廓などの興行主・土建屋・任侠団体・部落民などの下層民衆までも視野に入れ、『紀伊毎日新聞』『和歌山新報』などの複数の新聞史料を巧みに用い、見事に緻密に実証していることである。特に地方政治史の研究者が新聞史料を使用する際に見落としがちな社会面や広告記事から社会的結合関係を明らかにしている点は脱帽に値する。その結果、これまで水平運動家、資本家、労働運動家などと敵対的であると見なされてきた国粋会や任侠団体が、逆にそれらと親和的であったり、無産政党とともに下層民衆の利益を代表する立場であったことを明らかにした。本書に登場する阪本弥一郎・大堀孝・貴志於兎哉などの特異な地方政治家に固有な政治基盤は、このような実証方法を経なければ浮かび上がらせることができなかったであろう。

 第二に、大都市とその周辺部に位置する地方都市との間に生じる政治的経済的支配従属の関係を明らかにしたことである。1910年代には下層民衆の利益を代表する和歌山市公民会が大阪の岩下清周・片岡直輝や大阪市の予選派、不動産業界・遊廓経営者と関係を深め、大阪資本に系列化されていくことや、1920年代には政友会の領袖である岡崎邦輔と関係が深い大同電力・京阪電鉄と、政友本党の領袖である中橋徳五郎と関係が深い宇治川電気の二大資本により繰り広げられた紀伊半島の開発争奪戦の過程で、和歌山県政を支配した海草閥が京阪資本に参入していくことにより、京阪の紀伊半島進出を手助けしていったことを明らかにした。これまで、都市史の研究を中心として、地域支配の担い手の変化は、地域の近代化のあり方に規定されて地域社会内部のこととして自己完結的に説明されることが多かったが、大都市資本の地方都市への進出に対し、地方都市を支配する担い手が如何に対応したのかという、地方都市の大都市資本への参入のあり方から説明されてこなかった。地方政治家が電鉄電力を中心とした大型資本によりどのように系列化されていたかの分析は、今後、地域支配のあり方を解く新たな鍵となるであろう。

 第三に、1920年代後半以降において地方政治レベルでの被差別部落民の政治的進出を明らかにしたことである。1920年代後半において被差別部落民が民政党を介した県会議員・町村会議員に複数当選し、多くの融和事業費を獲得することで、県政や町政に対し一定の社会政策的要求を実現する役割を果たしたことを明らかにしたのである。一方、これに呼応し、和歌山県の官制融和団体とし発足した和歌山県同和会が、水平社と一定の緊張関係を保ちながらも共同して、他地域に比較し先進的な部落差別撤廃運動を展開したことも解明された。こうした成果は、これまでの水平運動と融和運動とを対抗させてとらえる研究視角に変更を迫るとともに、融和政策、融和運動の評価をこれまで以上に高めたと言えるであろう。

二 本書の疑問点

 第一に、大正デモクラシー、日本近代都市史についての研究史上の位置付けが必ずしも明らかではないことである。前者については前記の松尾氏をはじめ、鹿野政直氏・安田浩氏・伊藤之雄氏、後者については原田敬一氏・芝村篤樹氏・松下孝昭氏などによる数多くの先行研究が存在する。そうした研究と本書がどのような関係にあるのかについて敢えて多くは語られず、明らかにされていない。地方政治家の「中流以下」の大衆との利権を媒介とする社会的結合関係を解明することにより提示された重松氏の大正デモクラシー像と、普選運動に象徴される思想や理念の一貫性を有した運動史として描かれる松尾氏に象徴される大正デモクラシー像とはどのような関係にあるのであろうか。また、本書では地方政治の実態を独自の政治基盤に基づいた地域有力者の地方政治支配のあり方として説明され、地域有力者から法的には相対的に自立した地方行政の担い手である知事や市長などの主体性が見えてこない。このような相違が何故生じるのか、当該期を総合的に理解するために、地域事例研究における事実の相違を超えた説明が必要であろう。

 第二に、政治勢力としての非合法団体(「任侠集団」など)や大日本国粋会の位置づけについてである。本書はこれらの社会集団に対し下層民衆の政治的自由を拡大していく水平運動などの社会運動に対し敵対的かつ抑圧的であり、1930年代の「日本ファシズム」を支える温床であるとのこれまでの理解を一転させ、「デモクラシー」の担い手として下層民衆の利益を要求し水平運動などの社会運動と協力的な組織であることを実証した。では、これらの非合法団体が協力団体と抑圧団体とに分かれる分岐点は何にあるのであろうか。このような非合法団体が戦時下に果たした役割を含め、戦後も視野に入れた、政治活動の更なる究明が進められねばならないであろう。

 第三に、日露戦後から1930年代にかけての和歌山地域における政治状況の一般性と特異性の問題である。本書では、大都市大阪と、その周辺部に位置し主に流入者により形成される新興工業都市和歌山との地理的な距離と、和歌山地域の有力者の大阪資本への参加のあり方が、和歌山の政治状況を決定する主たる要因と結論付けられており、そうした政治状況は同じ条件を備える他地域においても一定あてはまることが推測されている。筆者はそれに大筋で首肯しながらも、あえて、近世における地域社会形成の固有なあり方も重視されねばならないと考える。和歌山地域が多くの被差別部落を抱えることなくして、このような政治状況は現出しなかったと考えるからにほかならない。

 第四に、普通選挙が実現していない日露戦争段階から、和歌山市会公民会は選挙権を有せず、地方選挙に参加する資格を持たない「中流以下」の民衆に対し政治的合意を得る地域振興策を本当に行う気があったのかということである。本書で展開される電鉄資本と密接な関係を持つ和歌浦の観光開発などは、地域振興策としては、大都市圏からの一定数の顧客を常に確保できなければ充分な利益を地域に落とさない大都市依存の不安定な娯楽産業を基盤としたものである。その点では、優良な産業資本を新たに誘致したり、既存の産業資本の労働条件を改善することの方が、安定した雇用を拡大させる地域振興のための有効な施策ではなかったかとさえ思える。ひいては地域の人口と税収の増加をもたらし、和歌山は異なった都市化の方向性を模索できたであろう。

おわりに

 以上、簡単ではあるが、非力と無礼を承知で、筆者なりに本書に対し感じた疑問点を提示した。しかしながら、本書が、日露戦後から1930年代の和歌山地域において形成される大衆民主主義下の地方政治状況を、下層民や他都市の動向まで視野に入れて丹念に実証した研究の集大成であることに変わりなく、その価値を何等おとしめるものではない。本書が大正デモクラシー研究のみならず、日本近代都市史研究、近代部落史研究に提示した数多くの新しい論点は、今後、後継の研究者により解明される必要を痛感する。

(本書の章立て)

序章
第一章 郊外開発論争と市政
第二章 都市下層社会をめぐる政治状況 ─1920年代の和歌山市─
第三章 紀南開発と県政─電源開発をめ ぐる地域の政治的状況─
第四章 和歌山築港論と県政・市政
第五章 青年党と活動家
第六章 政治運動と部落
第七章 和歌山県同和会の活動
終章