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2004.07.08
書 評
 
評者菅野 正之

安田雪著

働きたいのに…
高校生就職難の社会構造

(勁草書房、2003年9月、四六判・229頁、2400円+税)

 本書で安田雪氏(以下、著者)は、「十代の若さで職を探す高校生と、彼らをとりまく大人たち、そしてその背景――仕事を求める老若男女すべてを埋め込む現代日本社会の構造――を描いている」(i頁)。構造社会学を理論的支柱とし、ネットワーク分析の理論や方法に関する議論を展開してきた著者にとっては、極めて「自然」な発想といえる。ただ、この作業に大きな困難が待ちかまえていることは、容易に想像がつく。調査として、思考としてアプローチしなければならない対象が膨れあがり、それは議論が収拾不能におちいる危険をともなうからである。

しかし同時に、就職していく若者や就職が決まらぬまま高校を卒業していく若者、いやすべての若者や元若者が「学校から職業への移行」という経験のなかではっきりとは意識することなく通り抜け、そして現在でも埋め込まれている「何か」に言葉を与えるという、極めて重要な作業であり、議論である。その意味で、高校生に対する質問紙調査とさまざまな人たちへのインタビューをもとに議論が展開される本書に評者自身刺激を受け、一方でいくつかの疑問が浮かんだ。以下、評者なりの理解に基づいて本書の内容を紹介し、論点を提示したい。

 第一章「仕事がないから進学する」では、求人数の激減といった「高校の指導ではどうしようもない外部要因」(3頁)による「仕事がない」状況において、「進学」が何を意味するか論じられている。進学の易化は、進路の振り分けにおける学力の影響力を弱めた。そして現在、両者の振り分けに強く影響するのが家庭の経済力である。

 この経済力については、第四章「教育は進学を保障せず、学歴は就職を保障しない」において、企業城下町における企業倒産の影響が高校生の進路選択にも及ぶことが示される。とりわけ、「進路を決定すべき高校三年生の一学期まで、家族の費用負担をあてにして自分は進学するつもりでいた生徒が、実際に学費が払えず進学が不可能だということになるケースは哀しい」(93頁)。社会階層と進路との関係についてはこれまで数多くのの研究がされてきたが、進路を変更せざるを得ない状況における進路の揺らぎに焦点を当てていることは、進路決定までにはプロセスをともなうという意味で注目に値する。

 また、著者は一歩進めて、経済力と関係が深い文化資本の格差にも注目し、就職活動を前に茶髪や化粧を維持する高校生に目を向ける。「学校への従順と就職活動中の規律の遵守は、採用者への従順と労働意欲を示す『記号』」(23頁)である。「記号」を「記号」と理解することに、まさに文化資本の効果が先鋭に現れ、彼/彼女たちは「働きたい気持ちと働かなければいけない状況を、大人にわかる記号と論理で伝えられない」(24頁)。

 この指摘に対応するのが第三章「働きたいのに働けない 雇いたいのに雇えない」である。著者のいう「就職する力のない」、校内推薦から就職試験というルートで就職できない高校生が多数集まる場がある。それが、労働局とハローワークが主催する「高校生のための就職面接会」である。

 この面接会には「働きたい」高校生のみならず、高校生を「雇いたい」企業、そして高校生を引率する教員(学校)が集まる。著者はこの場におけるインタビューと観察から、三者のそれぞれの論理とその関係を描き出す。生徒は「資料は見にくいしぃ、何か話しにくいしぃ。二社聞いたら、もうだめ」(57頁)、企業ブースに「話を聞きに行くと、逆に質問されるから行けないっすよ(後略)」(59頁)と語り、そんな彼らを見る企業は、「まったく意欲や志望が感じられない生徒ばかりです。(後略)」(60頁)、高卒の社員を男女関係なく採用したいが「敬語も使えないですし、お化粧している子もいます。普段はともかく、面接にお化粧して来るのは問題外です」(61頁)と語る。

 この引用は、当然ながら本書のごく一部であり、まだまだ引用したい語りや著者によるリアリティあふれる描写が多数ある。ただし、単なる描写に留まらず、著者はこの面接会における高校生と企業との意識の乖離を次のように論じる。「採用担当者にとって、高校生は理解不能な、自発的に動けない若者の集団であり、高校生にとって採用担当者は自分を調べる検査官であり、組織による管理と統制の象徴なのである。彼らが相対峙する面接の場には、職場での仕事の達成感や一体感についての語らいも、将来に賭ける夢や未来の抱負についての会話もない。頑なな緊張と冷静な評価眼が相互の不信の連鎖を作り出していく」(62頁)。そして、この議論をふまえて著者は、その「不信の連鎖」を断ち切る契機として、「若者が仕事と社会を理解する機会である同時に、中高年が若者を理解するための機会でもある」(95頁)インターンシップがもつ可能性まで到達する。

 では、残されたアクターである教員はどうか。「(前略)こういう機会に何とか仕事を見つけて欲しいと思って引率に参りました」(63頁)という教員に対して、企業は生徒の準備不足を「(前略)自分でできないなら高校で先生が、事前に勉強させてきて欲しいものです(後略)」(61頁)と感じている。

 高校生の就職をめぐって学校と企業とは、これまで〈実績関係〉として指摘されてきたように、どちらかといえば蜜月関係にあると論じられてきた。第六章「商品としての就職・採用情報」では、この高校生、学校、そして企業の関係が、情報の流れという視点から論じられる。現在の高校とハローワークによる「情報窓口の独占は、過剰な労働市場の競争から生徒を確かに守って」(161頁)きた側面があり、そのことによって独占は正当化されてきた。一方で、現在の「高校とハローワークの情報占有と、高校制の就職活動が市場化されていないための民間企業の非参入状態が、生徒や保護者の情報不足という状況を作り出している。情報公開は競争を産む。情報占有は生徒の知識不足につながりひいては自己決定を妨げる。まさに諸刃の剣である」(一61頁)。この諸刃の剣に対する著者の回答は、「高校生達が求めている情報には、就職・採用情報と、仕事や職業一般についての情報の二種類」(162頁)があり、前者については民間の参入に慎重でなければならないが、後者については両者自由に発信していくことが望ましい、というものである。

 ここまで、著者が行った高校生に対する質問紙調査に触れてこなかった。この質問紙調査の内容と位置づけが論点になると考えたためである。まずは調査の概要と知見を見ておきたい。一度の事前調査を経て、全国七つの高校の三年生を対象とする質問紙調査が、2002年6月〜7月と10月の二度実施されている(iii頁)。調査の主目的は、「高校生の職業意識と就職活動の成果の関連分析」(iv頁)とされている。

 第一次調査からは、実際の就職活動を目前にして、高校生全体として正社員志向や労働と自立に対する意識が強いことなどから「意外なまでに保守的な若者の職業観」(34頁)と指摘される。また、第五章「就職活動は勉強よりも人を大人にする」では、性別や志望進路によって職業に対する意識に差が見られることが指摘されている。さらに就職活動開始後の調査である第二次調査の結果からは、内定の有無によって就職の難易度に関する意識や進学願望などに差が見られることが指摘されている。

 この調査に関して、小さな疑義は限りなくある。第二次調査の回答数がiv頁と65頁で異なる、表2・1(31頁)と図5・4(120頁)は同じデータであるはずだが結果が異なる部分がある(例えば「進路選択には友人や先輩の影響が大きい」)、そもそも第一次調査と第二次調査では質問内容が異なるのかどうか(少なくとも本書で提示されている範囲では異なると捉えられる)両者の関係についての明確な説明がない、図が煩雑すぎて検証不可能な状態になっている(例えば112頁図5・2)、などなど。

 これらは、本書の誤字の多さや議論の反復の多さなどからも感じられる編集・構成上の問題ではある。ただ、著者は、第八章「平等を夢見ながら職業に序列をつける」で、社会学の存在意義とその「宿命」について語り、また「機会に恵まれた人々の最低限の礼儀」を語る。ならば、社会学に関わる者として、貴重なデータを正確に提示することは、議論の大前提となる「最低限の礼儀」だろう。また分析の大部分で、単純集計とクロス集計の結果が、調査項目の羅列の中に埋もれている。もちろん、分析の第一段階としては重要な作業であるが、このデータを活かした研究がさらに展開されることを期待したい。

 また本書では、この調査結果に依拠して「高校生の時点で、フリーターや特殊な職業人生に執着する者は例外的な存在なのである」(122頁)という内容が繰り返し指摘される。第一次調査における志望進路を示した表二・二(38頁)や職業観に関するデータを見てもなるほどその通りである。しかし、それはあくまで著者が調査した範囲において、という条件がつく。もちろん、著者自身も無作為抽出から得られたデータではないことに注意を喚起してはいる(iv頁)。その上で、この繰り返しは、「フリーター二百万人という言葉にすべてを包括し、その経済的状況や背景の多様性を無視した批判や議論には意味がない」(72頁)という立場から、読者が抱いていると著者が想定している、ステレオタイプとしての「フリーター」観に変更をせまる意図があったのだろう。

 その意図自体は評者も共感し、また実際に「特殊な職業人生に執着する者」は例外的だと推測もできる。だからこそ、安易に新たなステレオタイプを生成するのではなく、あくまでも事例調査であることを自覚し、そこから引き出すことができる議論をより深めることが必要なのではないか。

 この感想は、本書評の前半部で紹介してきたような優れた議論があるからこそ、逆説的に正当化される。これらの描写と議論には、高校生と彼/彼女たちが埋め込まれている状況が描かれているのである。限定された地域で、限定された場で、限定された学校で著者がインタビューし観察したことによって、つまり事例であることを強調することで、その場における多種多様なアクターの論理とその関係を追うことが可能となったのではないか。

 評者自身、とりわけ「しんどい」層に焦点化した「フリーター」の生活史調査に関わり、そこでは数量調査では得ることが難しい多くの事例に触れ、時に圧倒されてきた。ただ、「フリーター」の語りのみから彼/彼女らが埋め込まれている社会構造を描くことは難しい。その意味で、社会構造に対する著者の視点、そしてそれを経験的に示した面接会という場のもつ意味を鋭く射抜く著者の議論に、学ぶところが大きかった。