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2004.07.08
書 評
 
評者西田 芳正

宮本みち子著

若者が《社会的弱者》に転落する

(洋泉社(新書y)、2002年11月刊、新書判・184頁、720円+税)

 一年ほど前のことである。とある私鉄の駅に最終電車で降り着いた私は、駅前のマクドナルド周辺で数人の若者が立ち話をしている姿に目をとめた。「ストリート系」ファッションというのかもしれないが、薄汚れたパーカーとジャージ、ボサボサな頭。何かを待っている様子の彼らの横を抜け、小一時間赤提灯にしけ込んでいた私は、駅前でタクシーに乗り込む寸前にも彼らがいることに気づいた。

 なぜこんな時間に…「あいつら、食べてましたね。お客さん、見ましたか?」と運転手の一言。閉店時に出される売れ残りの商品をゴミ袋の中から集めていたらしい。同じ時間帯にこのあたりを流している彼は何度かその姿を目にしていたが、食べている場面を見たのは初めてらしく、「何やってんでしょうねぇ」と驚きを隠せない様子だった。

 若いんだから働き口はあるだろうに…私にも言いようのない苛立ち、情けなさがわいてくる。「恥ずかしい話ですが、苦労して東京の大学を出した息子が大企業に入りまして、ほっと一息ついてたんですが、一月ほどで辞めて帰ってきちゃって、今は家でゴロゴロしてるんですわ。今時の若いもんはほんまに…」彼の繰り言はタクシーを降りるまで続いた。


 若者世代に対する非難はいつの時代にもある。親と同居して依存し続ける若者を非難する「パラサイト」論や夢を追い続けて定職につこうとしない「フリーター」への苦言などが近年盛んに言われている。先述の父親も、そうした論調を耳にすれば「まさにその通り」と賛同することだろう。

 そうした若者への見方は誤ったものである。彼らは大きな困難に直面しており、いわば崖っぷちに立たされた弱者と言うべき。その原因は個々人の心理的なものでは決してなく、社会の変化がもたらした構造的なものであり、そうであるがゆえに社会の側からの包括的な対策が緊急に求められる。そう主張するのが、『若者が《社会的弱者》に転落する』というショッキングなタイトルを付されて2002年に出版された宮本みち子の著作である。

 まず本書の概要を紹介しておこう。

 産業化の進展とともに成人期への準備期間としての青年期が延長され、多くの若者が長期間学校に通うことになる。豊かな消費社会の主人公として注目をあびる存在であったが、1970年代以降大きく状況は変わっていく。製造業の海外流出、衰退など労働市場の再編により若年失業が増加する。安定した職業につくために要求される教育水準が上昇し、それは親への依存の増大でもある。しかし、離婚・再婚の増加による家族の不安定性が高まったために、頼るべき親・家族を失う若者が増加する。加えて、近年の福祉削減の動きも重要であり、学費や生活費への社会的な支援が縮小されつつある。

 これらが若者の困難をもたらした構造的要因であり、欧米諸国では長年にわたって高い比率の若年失業やホームレスなど若者をめぐる様々な問題に直面してきた。職にも就かず進学もせず、職業訓練にも参加しない。何者でもない境遇を「ステイタス・ゼロ」と呼んだり、社会のメインストリームから排除されている状況を表す目的で「社会的排除」「下層階級」などといった言葉が用いられているのが、若者の置かれた状況が特に厳しいイギリスの近年の状況である。雇用、教育などの壁を取り払った包括的な青年対策が提唱され、実施に移されているのも、こうした背景、社会的関心があってのことである。

 欧米では、成人に達した子どもが親の家にとどまるべきではないと自立、離家をうながす規範が定着しており、たとえば高校を卒業した後は親元を離れること、経済的にも依存しないことが普通とされている。大学にも奨学金や高校時代のバイト代を資金として進む者が多く、近年の「受益者負担」による切り下げはあるものの、学費や生活費への公的な支援も充実したものであった。自立を促すと同時にそれを可能にする社会的な仕組みが存在していたのであり、自立=成人期への移行が困難になった事態についての認識と対策も、こうした風土があってのことだという。

 さて、日本の若者の状況はどうだろうか。

 欧米と同じ高度な産業社会であるがゆえに共通の困難に直面しつつある。労働市場の変化、教育水準の上昇、親のリストラ・失業、離婚等による家族の不安定化が構造的な背景であり、親の高齢化も着実に迫っている。

 日本の状況についての特筆すべき点は、若者が経験しつつある困難が顕在化しない、あるいは注目されない構造的要因があることだと宮本は指摘している。親・家族の強力な庇護のもと、丸抱え的に長期の学校教育が与えられ、学卒後は間をおかずに就職し、続いて企業が生活を保障する。家庭・学校・企業が三位一体となって成人期への移行を支える仕組みが確立していたのであり、そのために、若者の「自立」への模索と社会的な支援、社会問題としての認識と対策という欧米的な展開が日本では不在なのである。

 認識は遅れ、対策は皆無というなか、構造的変動はさらに進み、いまや若者は社会的弱者の立場におかれている。若者が層として没落する社会に未来はないのであり、包括的な青年対策が日本でも緊急の課題であるとの指摘で本書は結ばれている。

 本書のもつ意義として、欧米との比較という視点から、共通性と同時に日本社会の特異性が描き出され、日本の若者が直面する課題と対策の緊急性が説得的に示されていることが第一にあげられる。それまで当然視してきた現実を、他との比較によってあらためて見直すことが可能となる。比較という方法が有するメリットを十二分に活かした著作である。

 自ら実施した調査からデータが豊富に示されている点も本書の魅力の一つであり、家族社会学を専攻する立場から、結婚を巡る伝統的な性別役割が若い男女の自立を阻んでいる点、今日の親子関係が大きな問題を孕んでいる点などが論じられている。

 さらに、欧米で盛んに議論されているシチズンシップの概念を紹介している点も重要である。社会のメンバーとして権利を保障され同時に義務を果たしている状態を成人の要件として見る視点からは、今日の若者が置かれている排除状態がクリアに浮かび上がるだけでなく、たとえば成人女性が多くの権利を剥奪されてきたことも視野にいれることが可能となり、それらをふまえた形での青少年支援策の必要性が導かれる。

 本書は、そのタイトルからわかる通り社会の関心を促すことを目指した警告の書であり、目的は充分達せられている。

 しかし同時に、関心をうながし警告を発するという戦略のために、かえって重要な課題が薄められてしまったのではないか、という印象もある。

 大学生とその親が主たる読者層として想定されていたのかもしれないし、新書という量的な制約も大きかったはずであるが、日本の若者の多様なあり様、特に困難な条件に置かれた若者の実情が伝わってこないことが評者にとっては最も気にかかる点であった。

 高学歴・新卒就職・終身雇用は日本に特徴的なキャリアであったとしても、そうした途をたどる者が多数派を占めていたわけではなく、低い階層出身の子ども・若者にとっての、あるいは地方出身者にとっての大人へのプロセスは大きく違ったものであるはずだ。たとえば沖縄の若者たちの状況は、本書で紹介されている南欧的な様相を示す度合いが高いであろう。

 大学のゼミで本書を取り上げた際、「少し前までは、女性の結婚年齢についてクリスマスケーキのたとえが使われていた」と私が話しても、その場にいた女子学生には何のことかわからない様子で、「30までには」「いや、もう少しあとでもいい」と自らの結婚予想を話してくれた。彼女たちが安定した職につき、理想の夫にめぐりあうことができるのか。その見通しが決して明るいものではないことを宮本の示すデータと議論は教えてくれる。不安定でリスクに満ちた生活が待ちうけており、困難に直面しつつあることに、本人たちも、そして社会も気づいていないことを本書は強調する。

 しかし、すでに今日、日々の生活の中で困難な条件に置かれている若者が少なくないことも事実である。一例をあげよう。最近、調査で出会った女子高卒23歳のフリーター女性は、「20歳前には必ず結婚して若いお母さんになるのが夢だと話していた友人たちはみな結婚してしまい、私だけが行き遅れてしまった。もう結婚できないんじゃないか」と本気で心配していた。キャリア、人生の見通しがかくも異なることに驚かされる事例である。「大丈夫、結婚できますよ」と調査の場では返答していたが、気にかかったのは彼女の友人たちの現在と将来の方だ。すでに離婚し、一人で子育てしている者もいるという。語られはしなかったが、夫たちがつくのは不安定な仕事が多く、失業等苦しい状況にある者もいるだろう。

 階層的同質婚の傾向は日本でも確かに見られ、似た境遇、似たコースをたどる若い男女が出会い、早くに結婚し、親たちと同じような不安定な家庭を形成していく。こうした見方は「決めつけ」で「剥奪論的」だと反感を持たれることは承知しているが、上記した傾向が見られることは動かしがたい事実である。

 不利な条件、困難な状況に置かれた若者たちが確かに存在する。先述した社会の構造的変動が進み、不平等、格差が拡大していくなかで、欧米で言われてきた「社会的排除」の言葉が当てはまる若者たちが日本でも登場しつつあるのではないか。欧米で頻発し、しかし日本では「対岸の火事」と見なされてきた暴動などの社会的混乱、対立が、この社会で起きかねないという危惧を評者は抱いている。

 冒頭のエピソードにもどれば、働く気もなくブラブラし、信じがたい行動すらとってしまう若者は、実際には構造的制約の中でそうした状況を生きていると見るべきである。本人たちの個人的な問題だとすますのではなく、社会的な問題として受けとめ、社会の側での支援策が必要なのである。

 本書での問題提起を受け、次に取り組まれるべきは、困難な条件に置かれた若者たちの姿を描き出し、支援策を模索することである。