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2005.01.24
書 評
 
三浦 耕吉郎

石川准・倉本智明編著

障害学の主張

明石書店、2002年10月刊、四六判・294頁、2,600円+税

 〈足を踏まれた者の痛みは、踏まれた者にしかわからない〉という台詞が大きなインパクトをもちえた時代があった。このたび『障害学の主張』を読んで、この台詞に含まれた真理を久々に実感させられた気がした。それだけ、本書には、健常者中心主義の現代社会(それを障害学は「disabling society」、すなわち「[障害者を]できなくさせる社会」と呼ぶ)に安住したまま、障害者の足を知らず知らずに踏みつけ続けてきた私たちの目を覚まさせるに足る鋭い社会分析と、それにもとづいたラディカルな議論が展開されている。

 最初に石川准が指摘しているように、障害学のオリジナルな観点とは、「できないこと disability」を、「(社会福祉学がみなしてきたような)能力障害ではなく社会的障壁と定義しなお」すことによって、「教育、雇用市場、公共的施設への物理的アクセス(を社会が保障しないこと)において社会が障害者を差別してきたこと」を明確に示したところにある。

 障害者への差別を撤廃させるため社会的障壁の除去を求めるこうした論理そのものは、私たちにも馴染みやすい。しかし障害学の真のラディカルさは、そうした社会的障壁の除去を要請しながら同時に、「本人が望まなければ障害は無理に克服しなければならないものではない」ことを、資本主義や個人主義や能力主義といった現代の支配的な社会原理への徹底的な批判を通じて主張してきた点にこそある。

 障害はないにこしたことはないのか?という、私たちにとって言わずもがなに思われる問いをあえて俎上にのせる立岩真也は、「自分でできないこと、その代わりに他の手段を使うこと、他の人にさせることは常にその本人にとってマイナスではない」こと、また、障害を持つということは「生きる様式の違い、世界に対する対し方の違い、違うように世界を生きること」であること、等々について検討を重ね、意外にも「(本人にとって)障害はない方がよいことはあるが、全面否定の必要はない」という結論を導きだす。そして、障害がないにこしたことはない、と私たちが断言できてしまうのは、「周囲にとって、負担という点で、障害があることは確実に都合がわるく、ないことはよいこと」だからではないか?と、返す刀で健常者たちのホンネにまで深々と切り込む。

 たしかに、私たちは自分や他者の「できないこと」をどこまで承認できるだろうか、と考えてみると、つくづく「できないこと」への許容度の低い社会に住んでいると認めざるをえない。その要因を、立岩は「自分の働き分は自分だけがとってよい」「自らが行えることが自らの価値を示す」といった近代的な価値理念に見出すことによって、これらの価値観に縛られている私たちの姿を鮮明に浮かびあがらせていく。

 いや、現代の支配的な価値理念に縛られているのは、健常者だけではなかった。むしろ障害者自身が、そうした価値観を内面化させられ、障害にたいする「過剰な克服努力」(石川)を強いられてきた側面を見逃してはならない。実際、そうした事態は、障害者の生の全般にわたって生じてきているという。

 倉本智明は、長らく性的な感情や行為の主体から排除されてきた全身性障害者が「(障害をもつ)自分たちもまた、健常者と同様のセクシュアルな欲望をもち、その充足をもとめているのだ」という一見もっともな主張を実践に移そうとするさいにはまりがちな陥穽の例として、ホーキング青山の次のような文章を引用する。「そしていよいよ挿入。最初は、女の子の方が気を遣ってくれて、騎乗位してくれようとしたんだけど、それはそれ、やはり男はエッチのときに、征服欲というのがあり、途中で正常位をお願いする」(『UNI-VERSAL SEX』)。倉本によれば、「(ホーキング青山のように)性的欲望をもつ存在であることの論拠を〈男〉であることの共通性に求める一部障害者男性には、そこから降りるという選択肢は用意されていない。〈男〉であることを断念するということは、自身が性的欲望の主体であることの否定につながり、それはアイデンティティの危機を意味するからだ。彼らにとって、〈男〉であることの意味は健常者男性にくらべ遥かに大きい。結果、誰よりも強く〈男〉であることに固執することに」なるという。ここには、障害者が自己を主張しようとすると、健常者以上に健常者の価値規範にすり寄らねばならぬ、という逆説がある。こうした事態を回避するため倉本が提案するのは、「『ノーマル』、つまり『正常』『普通』であることをめざすのではなく、そこからの『逸脱』を促進し、秩序の攪乱と再編をこそめざす『性のアブノーマライゼーション』」とでも呼ぶべき戦略である。

 このように障害学は、いま、現代社会にたいして、最もラディカルな問いを発し続けている。とはいえ、障害学の論者のなかには多種多様な、そして、ときに対立的な見解が存在しているのも事実である。なかでも、自分たちを日本手話を共有する言語的少数者と規定するろう者たちは、そもそも「障害者」というラベリング自体を拒否することによって、障害学にたいしても一定の距離をおこうとしているように見える。また、瀬山紀子は女性障害者運動に着目することによって、女性障害者たちが男性主導の障害者運動にたいして抱いている懐疑感や、彼女たちが受けてきた男たちのとは異なる偏見や差別について考察を加えている。

 妊娠や出産や子育てをめぐっては、彼女たちの多くが、「生まれてくる子どもにとって不幸」とか「(障害をもっての)出産は困難」とか「(障害をもつ)親の面倒を子どもに見させる気か」とかいった理由で周囲の人や医者からの様々な反対を経験している。彼女たちが何より望むのは「女である自分たちが『当たり前に』結婚し子育てを担っていくことだ」という。ところが、その「当たり前」を前提とした言説、すなわち、これまで月経介助の負担を減らすために施設等で暗々裏のうちに半ば強制的に行われていた子宮摘出を批判してきた当の言説が、じつは「産まない女性」や「産めない女性」を否定する側面をもつというジレンマに直面させられて、女性障害者たちの運動は、「『女性性』自体を障害者の側から問いなおす」という新たな局面に入りつつあるという。

 また、みずからの軽度障害を中途診断によって知ったニキリンコは、医療サイドからもたらされた「障害(自閉)」というラベリングによって深い安心感を手に入れた体験を、「故意に手を抜く健常者」から「それなりにがんばってきた障害者」への変更、つまりは一種の「汚名返上」ないし「晴らされた冤罪」の出来事としてユーモアたっぷりに報告している。とくに興味深かったのは、非自閉者と自閉者の世界観を比較するという彼女ならではの方法によって、自閉者と非自閉者ではインターネット掲示板への書き込みスタイルにも違いがあり、非自閉者にとってのマナー違反がじつは「自閉者特有の『こだわり』」であったとか、両者の間では「ジョークの好みも違う」といったような、思わずハッとする記述が随所に見られることである。それにしても、なぜ、軽度発達障害者は「健常者」のレッテルにそれほどまでに苦しむのか?「制裁者の視点を内面化した者は、誰にも何も言われなくとも、一人で恥じ、言い訳をしなくてはならない」というニキの言葉が、読後に重たくのしかかってくる。

 さて、以上のような障害者差別の現実にたいして、私たちにはどのような対応が可能だろうか。障害者の立場にたつ石川は、同化主義的ないし差別主義的な社会においては、障害者は、社会への統合(障壁の除去)と社会からの異化(同化しないこと)を同時に目指して行動していくことが必要だと述べている。では、そのさい健常者に要請されるのは、いったい、どのような事柄か。まず、思いつきそうなのは、私たち自身が障害者にたいして抱いている偏見を見つめなおし、それをなくそうと努力していくことかもしれない。

 しかしながら、「偏見が差別をうむという従来どおりの差別理解の図式では、日常的な障害者差別のありようを解読できない」として、これまで行われてきた人権啓発の不十分さを指摘する好井裕明は、むしろ、公共的な空間で展開される「差別的なやりとりそれ自体」に着目すべきだという。そして、障害者嫌悪(フォビア)の感情が生みだされる原因を「私たちがいまだに障害者を他者として理解できていないことからくる恐怖であり怯えであり不安である」と看破したうえで、「嫌なんだというあなたの感情こそが問題」だとする決めつけ型の啓発に代えて、「自分がそう思ってしまう瞬間、自分と障害者との間に何が起こりつつあるのか。この瞬間を逃さず、他者として障害者と出会えない自分の姿を克明に見抜く営み」が重要なのだと述べる。

 このように障害者フォビアという現象を、「心」や「情」の問題から、社会関係の問題へと転回させてみせたのが好井だとすれば、障害と危害との結びつきを歴史を遡りながら辿りなおしてみせたのは寺本晃久である。寺本は、明治から大正にかけて生み出された、法学者、犯罪学者、社会改良家、医者、教育者たちの多様な言説を緻密に検討することを通じて、それ(明治末年)まで「障害をもっていることそれ自体は、単に『個人の不幸』あるいは『家族の不幸』」であったのが、一九一〇年代を境に、「養育や収容施設にかかる社会の金銭的・人的な負担」や「『精神力』や『国力』『生産力』に対する悪影響」や「不道徳の伝播」といった理由から、障害者は「社会の負担」や「国家の負担」であり、「(障害者の)存在そのものが間接的に(社会に)危害を与えうるものだという認識が生まれた」という。そこから、「最終的解決」、すなわち「そもそも障害者が発生しないようにすること」を求める「優生学の受容」まではほんのわずかだが、もしかすると、今日、私たちが障害はないにこしたことはない、と暗黙のうちに考えてしまう思考のルーツも、そうした百年近く前に遡る社会認識の変容に求められるのかもしれない。

 障害学は、かように障害にたいする社会的な観点の確立をめざしてきたが、障害学発祥の地イギリスと比べつつ日本における「『(障害の)社会モデル』の未確立」を嘆くのは杉野昭博である。杉野は、「リハビリテーションや障害者福祉は『障害者のため』に発展してきたという『顕在的機能』とは別に、従来型の産業における人員削減の受け皿として『健常者のため』に新規雇用を提供するという『潜在的機能』を有している」等々といった「障害の潜在機能」の存在を明らかにしたイギリスの研究動向に着目する。

 そして「『障害』と『労働市場』との機能連関の『発見』は、障害者差別というものが非合理な偏見などではなく、資本主義社会における機能的要件として合理的な存在理由をもっていることを示している」と指摘したうえで、福祉関連の専門家たちを「中立的な『善意の第三者』」ではなく「あきらかな利害関係者」として捉えようとする「障害の政治経済学」を「健常者社会のヘゲモニーを相対化する重要な契機」として高く評価しながら、そうした観点から、「日本の障害者政策を決定しているのは誰なのか。障害関連産業の規模はどの程度か。その業務独占の根拠となる『専門性』はどのような仕組みで承認されているのか。そうした『承認』の対価としての『利権』は存在しないのか」等々の問題提起を行っているが、考えてみれば、こうした「社会モデル」的研究の未確立は、なにも障害学だけに限ったことではないはずなのである。