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2005.01.24
書 評
 
窪  誠

金東勲著

国際人権法とマイノリティの地位

東信堂、2003年6月刊、A5判・378頁、定価3,800円+税

 国際法の主体は国家である。実際、人権というテーマが国際法の中に正式に位置づけられはじめたのは、第二次世界大戦末期に設立された国際連合の憲章において、国際連合の目的のひとつに人権が取り上げられてからにすぎない。よって、国際人権法という研究分野が成立するのは、戦後もだいぶ時間がたってからのことである。実際、日本において、国際人権法学会が設立されたのは、一九八八年のことである。

 とはいえ、たとえ、人権が国際的な課題とされても、人権を享有するのは主にマジョリティ(多数派)である。実際、国連総会は、世界初の国際人権文書として世界人権宣言を一九四八年に採択するものの、国内における主要な民族とは異なる少数民族、いわゆる、マイノリティの保護に関する規定を宣言に盛り込むことについては拒否した。つまり、国際法学において、人権はマイナーな課題であり、その中でもマイノリティ問題は、さらにマイナーな問題であった。

 こうした二重の意味で優先度の低い取り扱いをされてきたマイノリティ問題にもかかわらず、その重要性に早くから着目し、研究のみならず当事者の視点に立った運動にも取り組んできたのが、金東勲氏である。氏は、一九七四年京都大学に提出した法学博士学位論文に若干の修正を加えて、一九七九年『人権・自決権と現代国際法─国連実践過程の分析─』(新有堂)を著している。個人の人権、民族の自決権といった、国家を中心とする従来の国際法に対するアンチテーゼをすでにこの著書は示唆しており、これは、その後、この分野における必読文献となっている。

 このたび、マイノリティ問題についてのこれまでの論考を一冊の本にまとめあげたのが、『国際人権法とマイノリティの地位』(東信堂、二〇〇三年)である。一時的な関心から執筆されたものではなく、「まえがき」にもあるように、著者が「約三〇年にわたって公表してきたものであるため」、本書は「国際人権法発展の歴史もしくはプロセス」を記したものであり、これもやはりこの分野における必読文献であることはまちがいない。


 本書の構成は、その「まえがき」のことばを借りると、「序章は、国際人権法が克服すべき二つの課題、つまり国家主権との調和と人権条約の実施に関するものであり、第一章は、マイノリティの地位と権利の保護・伸長に関する国際人権法の発展と現代を吟味したものである。さらに第二章は、外国人の立場で一国内に所在する人びとの人権を国際人権法、とりわけナショナル・エスニックマイノリティの権利に照らして吟味したものであり、第三章は人種差別撤廃条約の制定・実施過程を分析・検討したものである」。


 より詳しく見てゆこう。序章「国際人権法の基本的課題」においては、第1節「国内事項不干渉の原則と人権問題」、第2節「国際人権条約と実施機関の役割」が検討される。上述のように、伝統的に国家を主体とする国際法において、人権を取り扱うことは、内政干渉と非難されるおそれがあった。これをどのように乗り越えてきたのかを分析するのが前者である。それを乗り越えるにあたって国連が行ったことは、人権条約を中心とする規範設定であった。一九八〇年代末にこの規範設定活動が一段落着くことによって、今度はそれらの規範をどのように効果的に実施してゆくのかが検討されることになる。それを明らかにするのが、後者の論考である。

 第一章「マイノリティの地位と権利」では、第1節「国際人権法とマイノリティの権利」で、国際人権法においてマイノリティの権利がどのように認められてきたのかを概観するとともに、日本におけるマイノリティの現状と課題についても検討される。第2節「自由権規約の実施過程に見るマイノリティの権利」において、マイノリティの権利を規定する自由権規約第二七条の内容と性質、ならびに、この規定の実施過程が提起する今後の課題も検討する。第3節「西ヨーロッパのマイノリティ」においては、西ヨーロッパにおけるマイノリティの状況と国内法制が検討される。

 第二章「外国人の地位と権利」においては、第1節「国際人権規約と定住外国人の生存権」、第2節「国際人権法と在日外国人の人権」、第3節「現代国際法における外国人の法的地位」、第4節「国連・移住労働者権利条約の背景と意義」が検討される。

 第1節の初出は、一九七八年『部落解放研究』に掲載された論文である。ふたつの国際人権規約は、その二年前の一九七六年に発効しているにもかかわらず、日本は当時まだ批准しておらず、人々の粘り強い運動によってようやく七八年に署名し、翌年批准の後、日本において効力を持つようになったいきさつがある。こうした時代背景のなかで、国際人権規約と定住外国人とのかかわりを特に生存権を中心として考察したのがこの節である。第2節は、すでに、ふたつの国際人権規約、人種差別撤廃条約などをはじめとする一〇あまりの人権条約に日本が加入した二一世紀の状況において、在日外国人の人権を考察したものである。

 よって、第1節と第2節を通読し比較することによって、日本における外国人の人権の発展と限界を見ることができよう。第3節では、視野を広げて、西ヨーロッパにおける外国人の法的地位がどのように発展してきたかが検討される。そしてさらに、第4節では、移住労働者の権利について、ILO(国際労働機関)、ヨーロッパおよび国連における取り組みが紹介される。

 第三章「人種差別の撤廃とマイノリティ・外国人差別」においては、第1節「人権の国際的保護と人種差別撤廃条約」、第2節「人種差別撤廃条約の国内実施」、第3節「英国の人種関係法と人種平等委員会」が検討される。著者は、人種差別撤廃条約が日本で効力をもつようになる二〇年近く前に、すでに、「この条約を日本語に直し、その内容及び意義を検討した研究を発表し」ている(本書二九四頁)。その再録が、第1節の論考である。

 第2節は、「日本が締約国になったことを契機に、改めてその内容と国内実施をめぐる問題点を整理」したものである。この節の結論では、日本が批准している他の人権条約にも敷衍して、以下のように述べられている。「中立で公平な地位が認められる国内人権機関と人権NGOの関与を制度的に確立することは、国際人権規約、女子差別撤廃条約そして子どもの権利条約など他の人権条約の実施確保のためにも、必要な重要課題である」。まさに、そうした国内人権機関の一例として取り上げられているのが、次節の英国人種平等委員会である。

 第四章「資料編」には、「すべての移住労働者及びその家族構成員の権利保護に関する国際条約」「新しい在留資格一覧」「民族的又は種族的、宗教的及び言語的少数者に属する者の権利に関する宣言」が収録されている。


 以上、本書に貫かれた三〇年にわたる一貫した著者の問題意識に読者は感嘆せざるをえない。その問題意識とは、差別なき平等社会をどのように普遍的に実現するかであった。本書が教えることは、マイノリティも異人種も外国人も、すべて、被差別者に貼られたレッテルに過ぎないということである。差別者の都合によって、被差別者に異人種やマイノリティや外国人といったレッテルが貼られるのである。

 在日韓国・朝鮮人も日本が第二次世界大戦で敗れる以前は、日本人として取り扱われていた。政府の都合により、本人に選択の余地を与えることなく、いきなり外国人とされたのである。部落差別の根拠も差別する側の都合で、異民族説、異人種説が唱えられることもあった。とはいえ、差別をはねのけるための闘いですら、当面は、マイノリティや異人種や外国人といった既存のレッテルに依拠せざるを得ない。そうしたレッテルの上に既存の制度が構築されているからである。それゆえに、たとえ、レッテルに過ぎないことがわかっていても、既存制度を研究し活用することが重要となる。本書はそのための作業を記した重要な書である。

 これほど完成度の高い論考に難点を見つけるのは困難ではあるが、無理に欲張って注文点を探し出すことも評者の著者に対する礼儀とするなら、以下の点を挙げることができるかもしれない。著者は、日本の人権状況の改善を第一目的としているため、当然のことながら、人権条約実施監督機関などの動きを肯定的に評価する。ところが、そういった機関が積極的に人権侵害に加担してしまうこともある。

 著者は、「自由権規約第二七条が保障する文化享有の権利」として、実施監督機関たる規約人権委員会が、「マオリ族の漁業とサミ族のトナカイ飼育」を認めた例を挙げている(八九頁)。これらは、国家の経済開発がマイノリティの伝統的生活様式を侵害したと申立人が主張した例である。ところが、著者の説明とは反対に、ここに挙げられたふたつの事例において、これらの侵害は人権条約違反と認められなかったのである。その理由を規約人権委員会は、こう述べる。「国家が企業による発展を奨励し、もしくは、企業による経済活動を許可しようと望むことは理解されうる。(中略)マイノリティに属する者の生活様式に与える影響が限られている場合は、その措置はかならずしも第二七条の否定に匹敵するとは限らない(国連文書CCPR/C/52/D/ 511/1992,(1994), para. 9.4.)」。

 国家による人権侵害の審査を任務とするはずの規約人権委員会が、国家経済政策の評価を行うという権限逸脱行為を行ってまで、国家による人権侵害行為を肯定しているのである。

 人権条約実施監督機関による人権侵害をどう阻止するのか。新しい問題がすでに起こっている。本書では、そうした点についての検討には十分手が届いていない。とはいえ、これは著者のみならず、私たちすべてが取り組まねばならない問題である。