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2005.01.24
書 評
 
清水 睦美

鍋島祥郎著

効果のある学校
─学力不平等を乗り越える教育

解放出版社、2003年12月刊、A5判・158頁、1,600円+税

 「効果のある学校」。魅力的ななタイトルである。日本社会において、学校への攻撃や学校を問い直す動きが始まり、二〇年余りが過ぎた。それらの攻撃や動きは、「学校」を弱体化させてきたといっていいだろうし、今やその存在さえも危ぶまれているといえるだろう。こうした状況のもとにおかれた学校関係者にとって、「効果のある学校」というタイトルは、その存在の再生への手がかりを提供するものとして響くであろう。他方に、これまで「学校」への攻撃の先陣を切ってきた学校無用論者たちもいる。それらの人々にとっても、「この期に及んで、学校はまだ効果があるというのか」という問いを生み出すであろう。いずれにしても、「効果のある学校」は、タイトルからして、魅力的であり、挑戦的である。

 しかしながら、最初に指摘しておきたいのは、本書を最初から読み進めるためには、読者が、ある一つの前提を著者と共有しなければならないという点である。それは、序章において著者が述べている「ますます拡大する学力・進路の階層間格差を乗り越え、不平等の再生産を抑止し、子どもたち一人ひとりの人生が『生まれ』によって左右されるのではなく、本人の意志と努力によって未来が拓かれる社会を実現することはできるのであろうか(一六頁)」という問いある。

 なぜ、この点を問題にするのかと言えば、評者自身も著者と同様の前提を共有しつつ研究活動を行ってはいるものの、たとえ学校関係者であっても、この前提を共有することは難しいという現実に、しばしば出会ってきているからである。子どもの人生が「生まれ」によって決まるのは「仕方がないこと」「当然のこと」とする雰囲気が、じわじわと浸透しつつあるような気がしてならない。そのもとでは、「効果のある学校」というタイトルがたとえ魅力的であっても、本書を最初から読み進めることは困難に近い。

 そこで、著者と同様の問いを共有しがたい読者には、第三章から読み始めることをお勧めしようと思う。この章は、著者の日米における教育経験が素材となっている。学校とコミュニティの日米の違いに焦点をあてた〈登校(七六頁)〉、朝の時間に莫大な時間をかけるアメリカの学校の様子を描写した〈朝食(七九頁)〉〈スルークバス(八〇頁)〉、「学校に来なければ学ぶことはできない」という合い言葉の元に繰り広げられる〈スクールカウンセラー(八二頁)〉の活動や〈一〇〇%クラブ(八五頁)〉・〈学力補充(八七頁)〉といった取り組みなどが紹介されている。

 著者のアメリカでの教育経験が一般的なアメリカの学校を代表しているかどうかは、ここでは問題ではない。なぜならば、ここでのアメリカの教育体験は、日本の学校で〈私の非識字体験(一〇五頁)〉で語られるような経験をもつ一人の少年が、日本における〈学校に来ることの意味(八九頁)〉を明らかにするための素材だからである。著者は、この項を「今もって理解できないのは、なぜ私は日本の学校で、日本語が読めない・書けないという状態で放置されたのかということである」と始め、「日本の学校は学習する場ではなく、日本社会での子どもとしての義務を果たすためにそこに行っていなければならないのだという価値観を、当時の私はすでに内面化していたようである」とまとめている。

 もし、読者が、著者の経験を著者個人のものとしてではなく、身近にある学校の、顔を知る誰かの経験と重ねあわせて、あるいはそうした体験を今まさにしているかもしれない誰かと重ねあわせて感じることができたならば…。そうでなければ一層の想像力を働かせて、日本のどこかの学校の見知らぬ誰かの体験として感じることができたならば…。もっと別の見方をするとすれば、本章に登場する「弟」の体験は、兄とどのように異なっていたのか、を感じることができたならば…。そこに、「効果のある学校」を探すことの社会的意義の地平は拓かれていくことになるだろう。


 本書では、日本の教育の現状と改革の成り行きを、階層性と平等性の観点で捉えることが序章や終章において繰り返し試みられている。そこで指摘されるのは、日本における階層的教育不平等がなかなか理解されにくい状況にあるという点と、それゆえ教育施策は、この点に無力であるばかりでなく、意図せざる結果であるにしても、階層間格差を押し進めることになってもいる点である。

 こうした状況のもとで、子どもたちは、「トリプル・エクスプロイテーション(三重の搾取)」に晒されていると第一章では分析されている。階層水準の低い家庭における消費行動の違いが、長期的な人生設計に基づく学習への意欲や進学への動機をつかみにくい環境に子どもたちをおいていることが実証的に提示されている。人々は、労働による搾取、消費による収奪、消費行動パターンによる子どもの進路剥奪という「三重の搾取」によって、みごとに階層秩序にはめ込まれていると結論づけられている。

 こうした階層水準の低い子どもたちのおかれた日本の教育状況を踏まえて、いよいよ第二章から「効果のある学校」論が始まる。一九九六年のコールマン・レポートで明らかにされた家庭背景決定論に端を発したアメリカでの学校無力論に対して、ロナルド・エドモンズは、「学校には、マイノリティや貧しい家庭の子どもたちの学力を他の子どもたちと同様、あるいはそれ以上に向上させる効果があることを実証する」ことを目指して、学校効果の測定に乗り出し、「効果のある学校」を探し出したという。

 著者も、このエドモンズの方法論に従って、二〇〇一年に行われた調査を再分析して、日本における「効果のある学校」を探す。その結果得られた「効果のある学校」は、小学校一校のみであり、経年比較をした場合に、学校効果は全般的に下降しているという結論を得る。その上で、「効果のある学校」を探し出すことの意味を、アメリカにおける「エフェクティヴ・スクール論」を検討することを通して探り、そこに最優先課題としての「学力保障」を見出している。

 第三章では、先にも述べた通り、「効果のある学校」を探し出すことの日本における意味が、著者の日米における教育経験を素材として明らかにされている。子どもの頃の著者の目を通して、光があてられているのは、平等を志向する運動と深く結びついているアメリカの教育実践である。そのことは翻って、日本の学校における「平等性」を再検討することになってもいる。

 さらに、アメリカで著者が行った調査研究が加えられ、それによって明らかにされるのは、公立学校と私立学校の関係、私学における公共性の問題、自民族中心主義の問題などである。未だ日本では議論の俎上にも載らないこれらの問題が、平等性の問題と絡めて論じられ、先見性を感じる論考ともなっている。

 迎える第四章は、「学校改革」の議論となる。それは、アメリカにおける「エフェクティヴ・スクール論」の最も重要な特徴である「性や人種・民族、社会階層といった児童・生徒の学力形成に不利に働く家庭背景要因を、学校を改革することによって乗り越えることができる(六一頁)」という理念に向かっての日本の学校の挑戦である。ここでは、著者が「効果のある学校」論を現場に持ち込み、現場と協働していく過程が描き出されると同時に、「効果のある学校」をめざして現場が取り組んだ学力保障をめざす「個別化(一人ひとりの到達度に応じた指導)」と、就学前の言語発達の違いを埋めるための「お話シャワー」という実践が紹介されている。


 本書の「あとがき」によれば、本書の内容は、著者が一〇年間にわたって「効果のある学校」にかかわって発表した論考をまとめたものであるという。欧米での分析枠組みを日本で紹介するといったスタイルの研究であれば、これだけの時間はかからなかったであろう。また、日本における「効果のある学校」の測定と、該当する学校の特徴を明らかにするというスタイルの研究であっても、これだけの時間を要することはなかったように思う。著者は、なぜ、これほどまでに時間をかけてまとめることになったのかという点は興味深い。

 「あとがき」に記されている初出一覧と本書の構成を比較してわかることは、本書の後半である第四章に収録されている「『効果のある学校』をめざして」が、初出としては早い時期に発表されているという点である。これによって明らかになるのは、著者にとって「効果のある学校」という分析枠組みは、研究者コミュニティでの発表以前に、現場に持ち込まれたという事実である。そして、それによって萱野小学校は再生していくのである。

 そうした再生の過程に、「効果のある学校」という分析枠組みを持ち込んだ著者自身がつきあうなかで、「効果のある学校」という分析枠組みは、日本の学校にも通用するものとして鍛え上げられてきたのではないか。だから、その後、著者は「効果のある学校」の分析枠組みを精緻化し、応用するという研究過程を経ることになったのではないか。そうであるがゆえに、一〇年という歳月が流れたのではないかと、推察の域を出るものではないが、思い至っている。

 長く現場に関わる研究活動を評者も行ってきているが、そういうなかでわかってくることの一つに、現場を変革するような働きをする研究者コミュニティの「分析枠組み」は、定義の厳格さや精緻さよりも、現実を包み込む広がりが重要であると感じることがしばしばある。しかしながら、その広がりには一方に拡散の危険がある。広がりを持ちつつ拡散しない「分析枠組み」の落とし所を探るのは、現場に関わる研究者の責務であると評者は考えている。そうでなければ、研究者の持ち込む「分析枠組み」は、現場を混乱に陥れるだけである。

 「学校は安易に『できない子どものための補充』を放課後に持ち出すのではなく、授業時間の中で学力保障を実現できる体制をめざしてほしいこと(一三二頁)」「萱野小学校では個々の教員の力量の差は自明の事実であり、それを隠すのではなく、それをオープンにし、互いに補完・評価しあうこと(一三六頁)」など、第四章の学校再生の過程で現場に向けられた著者の言葉は厳しい。しかしながら、そうであったからこそ、「効果のある学校」という「分析枠組み」が、拡散を避けて、現場の現実を包み込んだのであろう。だから、菅野小学校は再生したのではないかと思うのである。

 日本の学校がおかれた階層による教育不平等状況のもとで、一つの学校に何ができるのか。マクロな社会状況をミクロな教育実践をつなぐ可能性を探るものとして、多くの学校関係者に読んでほしいと思う。