住民総参加の地域おこし
「生きた福祉と感動の地域興し」を、行政の補助金をあてにせず、できることは自分たちでやる。そんな「むら」おこしが鹿児島県串良町上小原の柳谷集落でおこなわれている。約130世帯、300人ほどが住む、小さな集落の自治公民館長に著者が就任したときからその活動がはじまっていく。「自治公民館」は、法的には公立公民館と区別されていて「公民館類似施設」と呼ばれている。柳谷自治公民館は串良町内にある86自治公民館のひとつであり、年間約45万円が事務委託料として町から予算化されている。
1996年、柳谷公民館長に就任した豊重さんは、「環境」「農業」「福祉」「教育」をテーマに次々とユニークな事業を展開、「行政に頼らない」地域おこしを続けている。その実績は、先導的な社会計画を表彰する日本計画学会の第8回(2002)計画賞の最優秀賞を受賞、2004年には集落としては唯一の政府農村モデルに選定されている。また、その住民活動は周辺地域だけでなく、韓国やベトナムからも視察団が訪れている。
おもな活動
- わくわく運動遊園
民間でんぷん工場跡地の町有地に、集落の活動拠点を補助金に頼らず建設。電気工事部分だけ業者発注、あとはすべて集落民の労力奉仕。
- カライモ(さつまいも)生産
集落民から休遊地を無償提供、「高校生クラブ」の活動に位置づけ、集落民が後押し。これが自主財源確保の一番の取り組みとなっている。
- 寺子屋
集落内の小学5年生以上の希望者の基礎学力をチェック、週3時間の「寺子屋」に取り組む。指導者は中学校の数学・英語教員をリタイヤした講師などを招く。月1000円の月謝とカライモ栽培の収益の一部で運営。このほかに育英資金援助活動もある。
- 緊急警報装置
- 一人暮らしの高齢者宅に順次設置、カライモ益金等から充当、当事者出費ゼロ。
- 消防署管内の住宅防火モデル指定をうけ、煙感知器を32戸に設置、全戸設置をめざす。
- 全戸に防犯ベルを設置、各戸負担なし、活動費から充当。
- 土着菌製造と活用
集落内の家畜ふん尿の臭いの問題をきっかけに、土着菌を活用して環境問題に取り組む。現在はこの土着菌事業が進んでいる。ここにもカライモ益金が貢献している。
- 有線放送の効率的活用
集落内有線放送で、一人暮らしの高齢者などにスポットをあて、集落を離れたその高齢者などの子どもたちや孫たちのメッセージを高校生が代読した取り組み。
文章からみえるもの
本の「はじめに」で「小さな『むら』に活力を呼び起こすには、『金』ではない。『人』である。まず、人を動かすことである。」と書かれている。この本全体の基本理念である。つまり、住民当事者の参画こそがもっとも大切なのであり、その逆説としてサブタイトルの「行政に頼らない『むら』おこし」がある。単純に行政機関や行政補助と切り離された「地域づくり」を提唱しているのではない。実際にわくわく運動遊園の土地は町有地であり、煙感知器についても消防署から一部の提供をうけている。要は、協同のパートナーシップとして、それぞれの立場からの恒常的な取り組みが大切なのであり、決して行政は何もしなくてもいいということではない。むしろこれからは新たな「公」としての創造的な関わり方が求められてくる。
第1章の「地域おこしのリーダーとして」では「集落の充実感あふれる活動に不可欠な、良きリーダーが存在しているかということである。良きリーダー無くして、組織の活性化は絶対にありえない」と指摘している。まちづくりでもよく「うちにはそんな人がいない」「あそこだからできるんだ」という意見を聞く。しかしながらどこのまちづくりでも一朝一夕には達成しがたいもので、スタートは自分の地域の足元にある小さな問題解決からはじまっていくものである。まず問題の気づきとそれを共有できる「人さがし」ではないだろうか。解決方法の発見とプロセスの中で組織が育ちリーダーもみえてくる。
第7章の「私のリーダー論」ではまず「後継者育成ほど難しいものはないだろう。だからおもしろい」と書かれている。組織として解消することのないテーマだといえる。また、「地域活動の頂点は小・中学校である」と題し「子供や孫達が動けば、必ず親は動く」と述べ、子どもたちのためにも地域活動の必要性を説いている。
この他にも本に書かれた内容は、これからの「地方分権時代」の地域(地方)のあり方、とくに地方都市や農村部での地域づくりについて問いかけるものは少なくない。また、本の内容もおもしろかったが、著者の豊重さんについてもそのバイタリティと人間的魅力に惹かれるものがある。今の時代に自身の周辺にあまり見られることのない人物、そういう感じがしている。
ヨーロッパではEUという大きな枠組みがあるが、一方で地方自治についての意識も高い。大きな連合はともすれば地方自治が軽視されがちになりそうだが、多様性を確保するための「補完性の原理」という理念を持っている。今日、日本の地方自治体の文面の中にもこの言葉が使われるようになっている。この考え方は、家族や地域等小さな単位で可能なことは、そこに任せ、小さな単位では、実施不可能なもの・非効率なものについて、市町村や、都道府県・国などの大きな単位が責任を持って補っていくというものである。つまりもっとも自己の生活に近い単位から考えていき、そこで困難な場合により広域な単位が補っていくという、より小さな単位の自主性からの尊重である。
柳谷の取り組みと「補完性の原理」の共通点は多いといえよう。今日の日本の地方分権の動きの中、このもっとも基礎単位となる部分、ここを抜きにした地方分権、地方の時代には未来がみえてこないだろう。また、「補完性の原理」から、より広域な単位の行政としての置かれている位置を考え、創造すべき職務もみえてくるのではないかと思う。