独創的な分析と本書の意義
「学力低下」は時代のキーワードになった。一九九八年の学習指導要領改訂以後、数年にわたって「学力低下論争」が繰り広げられ、最近発表されたいくつかの国際的学力調査の結果が、「学力低下」のイメージを強化している。文部科学大臣自身、「学力低下」問題への対応策として、「ゆとり教育」見直しの方針を表明している。しかし、「学力低下」はイメージ先行の感が強く、学力の実態を示す正確なデータが存在するわけではない。国際的学力調査の結果自体、単純に「学力低下」を示すものとして理解できない面がある。
本書は、このような現実のなかで、注目の書として出版された。教育社会学の専門家として「学力低下論争」の一翼を担った苅谷剛彦が編者の一人として、独自の学力調査を通して学力の実態をとらえようとしているからである。
具体的には、本書において、一九八九年に大阪大学グループが実施した調査をベースにした関西調査(二〇〇一年実施・調査対象二二〇二名)と一九八二年に国立教育研究所が実施した調査に準拠した関東調査(二〇〇二年実施・調査対象七九九八名)をもとに様々な分析が行われている。関西調査、関東調査のいずれの場合にも、一九八〇年代の調査とほぼ同じ内容のテストが実施されている。
ただし、そこでの課題はたんに学力の変化や学力の低下を検証することだけにあるのではない。学力が低下したとすれば、誰の学力が、なぜ、どのように低下したのか、この点も、本書の重要な課題とされる。
前者の課題、つまり学力の変化とその構造の解明に対応するのが、第 I 部に配置された諸論文である。第1章「教育課程行政と学力低下」では、算数の学力低下を確認した上で、教育課程の上で取り扱いが簡素化された事項に関わる設問において正答率が低下する傾向を明らかにしている。第2章「『学習遅滞』と『学習速進』はどこで起こっているか」では、全体的な「学力低下」と同時に、「学習遅滞児」の増加による「学力の分極化」の傾向があることを指摘し、「学習遅滞児」はたんなる“低学力”でなく家庭的背景(社会階層)や学習習慣と密接に関連している点を浮き彫りにする。
第3章「教科領域別の学習達成度の変化(中学校編)」は、数学・国語とも「わからなくなるとどんどんわからなくなる」傾向がかつてより顕著になっていることを明らかにし、第4章「学ぶことの意味」では、子どもたちが感じる学習の意味や意義(「学習レリバンス」)は、多くの場合「現在的レリバンス」(面白感)より「将来的レリバンス」(役立ち感)に規定されていること、女子は男子と異なり「学習レリバンス」が教育達成を高める固有の効果をもっていないことが明らかにされている。
そして、第5章「教室の授業場面と学業達成」では、新学力観志向・個別学習志向の授業実践は学力水準の高さに、伝統的な学力観にもとづく授業実践は階層間格差の縮小に、それぞれ関連する可能性があることが示唆される。このように、第 I 部では、学力の低下や変化の構造および要因を教育内容(第1章)や教育方法(第5章)といった子どもをとりまく側面と学習の定着に関する遅速のあり方(第2章)や学習に対する子どもの受け止め方(第3章・第4章)といった子ども自身に関わる側面から明らかにしている。
本書の二つめの課題である学力の階層差や家庭背景との関係について検討するために用意されたのが、第 II 部である。第6章「『学力』の階層差は拡大したか」では、学力形成に家庭的背景が及ぼす影響の強まりとそれをもたらす公立学校の教育効果の低下が示唆され、第7章「学力の規定要因」では、学習時間と階層と学力の三者の関係を分析し、子どもの学習時間が階層によって異なり、算数の学力テストの結果にもそれが反映すること、しかも学習時間が学力に及ぼす効果にも階層差があることが明らかにされる。
第8章「ポスト学歴社会における学習意欲と進学意欲」では、父親が大卒である場合、現代社会を学歴社会であると見なす子どもほど進学意欲・学習意欲が強いという関係が見られたが、父親が大卒でない場合、そうした関連は見られなかったことが示される。第9章「誰が落ちこぼされるのか」では、低学力の子どもたちが、下位の階層だけでなく、同和地区出身者、「単身・欠親家庭」といったマイノリティのなかに確実に増加していることが指摘される。
さらに、第 II 部には、全般的に学力低下の見られる状況のなかで健闘している学校(「効果のある学校」)の取り組みを分析した第10章「低学力克服への戦略」と、戦後初期の学力論争の再検討を行った第11章「戦後初期に『学力』の『低下』が意味したこと」が配置されている。前者では、「効果のある学校」は基礎学力の保障に徹底的にこだわる指導方針、「集団(仲間)づくりの原則」の堅持、「教師集団のチームワーク」に支えられていることが明らかにされ、後者では戦後初期に行われた学力低下批判は思想的な結論が先行したもので決して科学的な検証にもとづいたものではなかったこと、現在もその教訓をふまえる必要があることが指摘されている。
本書のもっとも大きな価値は、一九八〇年代の学力調査と同様な設問を用いた、大量のデータにもとづく厳密な学力調査を通して、「学力水準の低下」と「学力の階層差の拡大」という現実を明らかにしたことである。とくに、同様な設問を用いた二時点間の学力比較の手法は、イメージ先行の感のある「学力低下」論をのりこえる上で有効である。しかも、個々の論文は、それぞれ調査項目や調査実施上の種々の限界のなかで、様々な工夫をしながら独創的な分析を行っており、この点でも読みごたえのある作品になっている。本書は、学力低下への懸念を議論する時に、参考にされるべき必読文献として位置づけられる。
意図せざるメッセージへの懸念
ただ、一読して気になった点があったことも事実である。
第一に、本書の各論文間にすれ違いや矛盾がみられる点である。たとえば、第5章では新学力観志向・個別学習志向の授業実践が学力水準の高さをもたらし、伝統的な学力観にもとづく授業実践が階層間格差の縮小に関連する可能性があることを示唆している。
これに対し、第10章では学力低下のなかでも健闘している「効果のある学校」を分析するにあたって、授業実践の特質ではなく、基礎学力保障へのこだわり、集団づくりの原則の堅持、教師集団のチームワークといった教師や学校の姿勢ないし態度に視点がすえられている。第5章での分析結果自体、一つの可能性であるわけなので、「効果のある学校」の分析を通して、より深められる必要があると思う。それなのに、異なった視点からの検討しか行われておらず、論文間のすれ違いや多少の物足りなさを感じる。
また、第11章は本書全体の論調に対して、実質的な批判の意味をもっているように読めてしまう。なぜなら、戦後初期の学力低下批判が科学的な検証にもとづいたものではなかったという指摘のなかに、学力の内実とはたんに特定の設問に対する反応としての回答を集計して明らかにできるものではない、とする独自の考え方が含まれているからである。学力の定義やそのとらえ方については、編者自身、序章でもおわりにでも丁寧に目配りをした議論をし、その上で、本書の意義を主張している。そのため、考え方の相容れない論文、しかも直接的なデータ分析とは無関係の論文をあえて配置する意味がうまく理解できない。
第二に、「学力水準の低下」と「学力の階層差の拡大」はある程度明らかになったが、その原因までは明らかにしえていないという感覚が残った。もちろん、本書では様々な角度から原因論にまで言及しようとしている。教育内容(第1章)、教育方法(第5章)、子どもがとらえる学習の意義(第4章)、学習時間・努力・階層の相互関係(第7章)といった視点から原因論が展開されているとみなすこともできる。だが、それら相互の関連が示されない限り、原因論というより現象を構成する要素間の関係が提示されたにすぎないと感じられてしまう。
原因論に関するある程度の構造的な全体像がないと、父学歴とか家庭の生活習慣といった指標だけで階層が捉えられるのか、質を問わずに学習時間の長さだけを問題にするのが妥当か、さらには学力の定義自体、厳密なのかといった疑問が表面化しかねない。これらは実態調査にはつきものの概念の操作化の問題であるが、同時に本質的な問題でもある。その意味で、こうした疑問を表面化させないためにも、各章で検討され浮き彫りになった諸結果を関連づけたまとめがほしかった。
第三に、それと関連して、「学力水準の低下」と「学力の階層差」への対策が必ずしも十分に示されなかったことが残念である。本書の分析や苅谷の主張からすれば、「学力水準の低下」と「学力の階層差」の主要因である低階層の子どもの意欲と勉強時間の低下を改善することが現状を克服する要になるだろう。それは、低階層に多く見られる、進学塾に行かず家でも勉強しない「NoStudy Kids」の学力水準の低さが指摘されていることからもうかがえる。
だが、そうした現状は、「ゆとり教育」を見直せば、実現できるほど単純なものではない。苅谷自身、別の著作で明らかにしているように、成績(学力)の階層差は戦後日本に一貫して見出される傾向である。そのため、「学力の階層差」の縮減にむけた、ある程度の視点や処方箋がほしかった。それがないと、少なからぬ読者が「ゆとり教育」の見直しによって、「学力水準の低下」と「学力の階層差」の問題が改善されると感じてしまうおそれがある。
しかも、独自の処方箋をともなわない「ゆとり教育」の見直しは、現時点では、競争主義的な教育をもたらす可能性が高い。そうなれば、たとえ学力水準の全体的上昇が実現しても、競争条件に恵まれない低階層の子どもたちの相対的な低学力は維持・再生産されたままとなり、本書のねらいとは異なる現実が生み出されることになりかねない。
以上、多少、ないものねだりの感がなくもないが、あえて感じたことを書かせていただいた。本書が世論に与える影響力の大きさをふまえ、本来持っているねらいと異なるメッセージが広がることを懸念したからである。